野口整体の真髄「生命を感得する」禅の心
②自分が拓かれていくと、…働きかける場面が違ってくる
師野口晴哉はその晩年、愉気法の会(1970年)での講義で、「気と心(潜在意識)」について、次のように述べています(『愉気法1』全生社)。
質問に答える
質問 愉気に対する理解の仕方で相手の感応が異なるでしょうか。
答 人間は心も体も一つものであります。心も体も魂も何もかも一つものであり、一個のものであります。その一個の人間を研究上の便宜で分けた(科学が心と体を分けた)、その分けたものにとらわれ過ぎているのです。
…別のものと見たり、心があるとか体があるとかいうように考えるのは本当ではない。
ですから、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。
…人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。
人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんにありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。
…ですから、人間に心(潜在意識)のあることを知り、更に奥にある生命の働き(無意識)というものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中味が拓かれていく(修行によって)と、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。
胃袋に穴があいたという場合でも、それを愉気して治すつもりで愉気するうちはまだそれだけで、そのもとである心の緊張過度、やすらぎのない心を治せないのです。ところが心の奥に伝わる気のあることを知り、相手の心の奥にあるものを理解して手を当てると、やすらぎのない心を弛めることができるのです。
ですから手から出る気で細胞を働かせていくというやり方(気功法?)にもなお強制があるのです。自然にやすらぎが得られ、その人の体の力で治っていくというような時は、治された時と違うのです。
だから安らぎを得て治ったものは繰り返さないが、やすらぎのある心に至らないで、物理的に治された場合には、同じことをまた繰り返します。
こういうことは難しいことのようですが、私達が自分の内面を開拓し(潜在意識を養い)、人間を丁寧に知り、人間の裡にある生きている不思議さとか、心の働きの微妙さとか、そういうものを丁寧に理解して手を当てておりますと、同じ愉気をするということでも違ってくるのです。
(金井)「触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくる」、これは愉気法の究極というべきものです。