野口整体と科学 第一部 第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 一1①
第三章 近代科学(二元論)と東洋宗教(一元論)の身心観の相違
―「自分の健康は自分で保つ」ために必要な身心一元性(主体性)
今日から、第三章に入ります。第一部の中心となっている章で、分量も多くなっています(原稿での第三章タイトルは↑)。
この第三章の冒頭にある野口先生の言葉は、文字として残っている資料からの引用ではなく、金井先生の心の中に遺された野口晴哉の言葉です。
野口先生は晩年、現代人の根本的な問題として「体の鈍り」があると指摘しました。これは刺激に反応する力の低下と身体感覚の問題で、野口先生が病症の意味を理解すること、過剰な医療の問題を説くのは、医療の進歩と言われることの中に、結果的に体を鈍くし、また混乱させてしまうやり方があまりに多いからなのです。
このことが、人間の正常性(正心・正体・正気)に深く関わっている…というのは、野口晴哉の遺した最大のメッセージと言えるかと思います。
そして、この認識を多くの人と共有するためには、私たちが信じてやまない近代科学に疑問の目を向ける必要がある、というのが金井先生の晩年の取り組みでした。
それでは今回の内容に入ります。
一「心身二元論」の近代科学が人間に与えた影響―科学は身体性から離れる
1 科学と現代に生きる日本人の問題①
一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」
二、「気のしっかりした人がいなくなった」
三、「たましいという言葉が使われなくなった」
四、「このままいくと頭のおかしい人が増える」
五、「いきなり刺す人が出てくる」
これら五つの言葉は、高度経済成長時代(1954(昭29)年~1973(昭48)年)後半の、師野口晴哉の言葉です(これらの言葉は、当会での、2008年夏からの講習会教材と翌年からの新たな会報(Ⅴ~)作りをする中で、私の潜在意識から呼び起こされたもの)。
一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」という言葉は、戦後の高度経済成長社会と、これに適応させるための「科学的教育」、特に科学的知識の詰め込み教育の問題を象徴していたと思います(敗戦後の日本は、高度科学的社会実現のため理性至上主義教育となり、理性に偏重した人間を育てた)。
そして、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」という言葉が、本書執筆の(「科学とは何か」に取り組む)隠れた動機となっていたのです。
二と三は、日本人の伝統的な「身体性(註)」の喪失と科学的「理性」の発達によっての、精神性や人間力の衰退を示唆していました。
(註)身体性
人間の知覚・認識に対し、儒教や仏教では「正心・正体」によってこそ、つまり「正気」でこそ、初めて物事を正確に知覚し、正しく理解することができると教えていた。敗戦後はこのような東洋宗教文化が衰退し、正気の人が少なくなった。本章三 8参照。
「気のしっかりした人」とは、「正心・正体」の人のことです。
四と五は、師が、将来の人々の「心の不安定さ」を見越したものです。没(1976年)後三十年を経る頃、五つ目の言葉が現実となり、頻繁にテレビニュースの冒頭を飾るようになってしまいました。
現在(2016年)から半世紀前、師は将来の日本人の姿を、このように見通していたのです。
そして、これらの言葉の背後には「愉気が行われなくなったのです」という、もう一つの師の言葉がありました。
野口整体の技術としての愉気法は、直接人の体に触れるものですが、この場合の「愉気」とは、「気遣い」や「心の通じ合い」という、他者との「気のつながり」を意味しています。
連帯感を持てないことで、個人は不安定となるのです(社会が科学的に発展すると「人のつながり」が薄れる。心身二元論=心身分離→「自他分離」に由る影響。東洋宗教文化はつながりを大事にしていた)。