野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第一章 野口整体と西洋医学―身心一如(一元論)と心身分離(二元論)二6

 今回の内容にはインドの伝統医学アーユルヴェーダと、中国の伝統医学、中医学について述べられています。

 2020年3月3日に公開された中国の「新型コロナウイルス肺炎診療ガイドライン」(中国国家中医薬管理局弁公室)では、西洋医学の科学手法に基づく解剖、診断、治療について述べた後、中医学の所見と生薬の処方が併記されていました。

 中国医学には3000年以上前から感染症についての知見があり、COVID-19の肺炎には、伝染性の病気に対する治療法について述べた古典『傷寒論』に記載されている「清肺排毒湯」が代表的な処方として用いられました。

 台湾でもCOVID-19に積極的に中国医学による処方を用い、韓国でも伝統医学である「韓方」(中国医学の知見を援用しながら)を用いて、治療効果を上げているとのことです(「新型コロナウイルス感染症に対する漢方の役割」医事新報HPより)。

 日本でも、ガイドラインの中にある処方を日本で応用可能な形にした処方が公開されていますが、台湾・韓国のようには用いられていないようです。

 戦前のスペインインフルエンザのパンデミックでは、漢方医が積極的に漢方薬を調合し、効果を上げたという記録があり、野口整体にも、野口晴哉が患者に行った操法が伝えられています。

 それでは今回の内容に入ります。 

6 西欧の近代医学成立と日本の西洋近代医学一元化― 自然治癒力の概念は喪失した

  その後の西洋医学は、17世紀にデカルトニュートンが確立した近代科学の方法論(心身二元論・機械論)を応用し、発達していきます。

 18~19世紀、産業革命が起きた西欧では、都市の労働者などの貧民層を中心とする患者向けの大病院を、国家が建設するようになりました。

 成育歴や生活状況が分からない重症患者を大量に診察する必要から、病気そのものを病人から区別された実体として扱う「病気中心主義医学」が始まったのです。

 そして病院が新しい医学、医療技術を開発する場、また軍医の需要を充たす必要性から研修医の訓練を行う場となり、国家に医療費をまかなわれている貧しい患者が被験者となったのです。(特に外科手術や死亡後の解剖実習の場合。手術における麻酔の使用は1846年から)こうして病理解剖学が発達していきました。

 19世紀後半になると、ドイツで病理学者ウィルヒョウの提唱により「全ての疾病は細胞の異常に基づく」という「細胞病理学」が起こります。

 こうして、病室ではなく大学の研究室で、顕微鏡を用いた科学的基礎研究による病理学が始まり、つづいて「病原細菌学説」(パスツール・コッホ)が起こりました。ここで、西洋医学は自然科学の基礎を確立したのです。

 そして、植民地拡大の上でも病原細菌学説に基づく伝染病の予防法、治療法は有益だったため、国家の支援を受けての研究が盛んになりました。

 この「研究室医学」をさらに後押ししたのが化学工業の会社で、企業の資金で新薬開発が進められる研究体制が始まりました。20世紀に入り第一次大戦後は、アメリカで「科学的医学」の研究がさらに進み、抗生物質ペニシリンストレプトマイシン)の発見につながっていったのです。

 こうして、ヴェサリウスが築いた近代解剖学により、以来470年、西洋近代医学は人体解剖学を基礎として、身体を客観的に捉えることで発展してきたのです。 

 日本では明治七年(1874年)、政府は医制を発布し、西洋近代医学(ドイツ医学)を国家医学と定め、江戸時代までの伝統医療を正当な医療から排除したのです。

 江戸時代までの西洋医学としては、蘭方(オランダ医学)がありましたが、これ以外の伝統医療(今日、東洋医学の枠で呼ばれるもの)の中には、西洋近代医学には無い大前提として「自然治癒力」があったのです。

 西洋においては、ヒポクラテスの時代には存在した「自然治癒力」という概念は、近代科学を基盤とする西洋医学では失われ、つい最近までありませんでした(註)。これは、人間の体を機械論的に捉えることから生じたことです。

(註)アメリカで1960年代、ホリスティック医学(全人医療)が生まれ、自然治癒力が医学に取り入れられた(本章四4で詳述)。

 中国には漢方医学、インドにはアーユル・ヴェーダという伝統医学があり、近代医学と協力する形で共存しています。

 中国では、中薬(和名・漢方薬)・鍼灸という伝統医学と西洋医学は両立しており、両者を統合した医学を「中西医学」と呼んでいます。私は、日本の医療の近代化というものが、中国のような形で進むべきであったと思います。

 しかし、日本の近代化の中では、政府が伝統医学を近代医学のはるか下位に置くという歴史がありました。

 当時、極端に低い日本の国際的地位に危機感を抱いた明治政府は、日本が文明国であることを欧米人に示そうと欧化政策(註)を用い、その一環として西洋近代医学だけを国家の正統医学と認めることにしたのです。

(理論的な裏付けが希薄な東洋医学は、欧米人に理解が得られないのみならず不審なものであった)

 こうした事情による西洋近代医学一元化によって、明治7年以来、日本においても、人間の身体を「機械論的に捉える」ようになりました(以下、西洋近代医学を西洋医学と同義とする)。

 宗教的な考え方を持つ伝統医学が否定され、唯物的な近代医学が権威あるものと受け取られるようになったのです。とりわけ、敗戦(1945年)後の科学教(科学万能主義)の時代を経て、現代日本人は機械論的生命観・客観的身体観となりました。

(註)欧化政策 

 1880年代、明治政府が日本の文化・制度・風俗・習慣をヨーロッパ風にして、欧米諸国に日本が近代化した事実を認めてもらおうとして採った政策。欧化政策の背景には、極端に低い日本の国際的地位という当時の状況があった。

 ヨーロッパでは日本人が、その「見た目」によって半未開の人種として「珍獣扱い」されており、井上馨(外相)と伊藤博文(首相)らは、欧米と同じ文化水準である事を海外に示さない限り、まともな外交交渉の相手としても認められないという事実に気づいた。これに関連して盛んに行われた思潮・風俗の動きを欧化主義という。

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江戸時代、シーボルトが日本で行った瀉血の図。