野口晴哉生誕百年―臨床心理による整体指導 序章 二6
顔を見る・見ないという違い…「切り離す」西洋医学
金井 心身二元論による「客観的身体」というのは、「肉の塊」として観ているのですね。
上村 そうですね、手術とか本当にそうなんです。
お腹の手術をする場合、「術野」と言うんですが、外科医からはお腹しか見えないように「ドレーピング」と言って、全て布をかけてやります。
「人」に刃物を入れるという意識よりは、その「部分」としての方が、落ち着いた感じで手術ができる、と言えると思います。
金井 そうでしょうね。患者が麻酔で眠っていても、やっぱり顔が見えたらやりにくいでしょうね。
上村 そういった意味があって、顔から何から隠します。「全身管理」をする麻酔科医の位置からは見えるんですけど、手術をする医師の側からは顔は見えないようにするのです。
金井 麻酔科医からは見えるんですね?
上村 麻酔科医は頭側にいるので、全部見えるんです。
顔が見えないように、お腹に掛けた布を首のところで折り、立ててあるんです。お腹の側からは手術する場所しか見えない。
金井 そうでしょうね。これとは逆に、野口整体の個人指導では、相手に仰向けになってもらった時、髪が顔にかかっていると、お腹に手を当てていて、どうにも具合が悪い感じ(つながらない感じ)がして、顔にかかった髪を払うんです。別に顔をじっと見ている訳ではないのですが、顔が隠れているとやっている気になれない(つながらない)んです。本当に「面と向かう」仕事だと思います(互いの心が交流、「感応道交」することで「身心」が整う)。
上村 手術をする上では、「切り離す」(註)という感覚が必要なんだろうと思います。その「切り離す」大元に、まず一つ、「もの」としての認識がないと、とても具合が悪いと思います。
金井「ひと(人間)」なのか、「もの(物質)」なのか。
この頃は医師が患者と話をするという時に、患者の顔を見ない(で、パソコン画面を見ている)ということですが、「顔を見ない」というのが、西洋医学の科学的発達の末にあるのですね。
(註)体から心を切り離した心身二元論によって、手術が可能となった。
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金井先生は、『野口整体と科学 活元運動』第一章二 6 西欧の近代医学成立と日本の西洋近代医学一元化 で、西洋近代医学の発展について次のように述べています。
…西洋医学は、十七世紀にデカルト・ニュートンが確立した近代科学の方法論(心身二元論・機械論)を応用し、発達していきます。
十八~十九世紀、産業革命が起きた西欧では、都市の労働者などの貧民層を中心とする患者向けの大病院を、国家が建設するようになりました。成育歴や生活状況が分からない重症患者を大量に診察する必要から、病気そのものを病人から区別して扱う「病気中心主義医学」が始まったのです。
そして病院が新しい医学、医療技術を開発する場、また軍医の需要を充たす必要性から研修医の訓練を行う場となり、国家に医療費をまかなわれている貧しい患者が被験者となったのです(特に外科手術や死亡後の解剖実習の場合。手術における麻酔の使用は一八四六年から)。こうして病理解剖学が発達していきました。
十九世紀後半になると、ドイツで病理学者ウィルヒョウの提唱により「全ての疾病は細胞の異常に基づく」という「細胞病理学」が起こります。
こうして、病室ではなく大学の研究室で、顕微鏡を用いた科学的基礎研究による病理学が始まり、つづいて「病原細菌学説」(パスツール・コッホ)が起こりました。ここで、西洋医学は自然科学の基礎を確立したのです。
そして、植民地拡大の上でも病原細菌学説に基づく伝染病の予防法、治療法は有益だったため、国家の支援を受けての研究が盛んになりました。この「研究室医学」をさらに後押ししたのが化学工業の会社で、企業の資金で新薬開発が進められる研究体制が始まりました。二十世紀に入り第一次大戦後は、アメリカで「科学的医学」の研究がさらに進み、抗生物質(ペニシリン)の発見につながっていったのです。
こうして、ヴェサリウスが築いた近代解剖学により、以来四七〇年、西洋近代医学は人体解剖学を基礎として、身体を客観的に捉えることで発展してきたのです。