野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観三5
ユングの東洋への関心は、東洋宗教の前提ともなっている「個人に内在する神性(仏性)を目覚めさせる」という伝統が、なぜ西洋の宗教的伝統では否定されたのか」という問いからだったと言われます。
西洋にもそうした修行的な教えがなかったわけではなく、キリスト教内部にもその道筋を求めた人はいたのですが、異端とされ、迫害されることが多かったのです。
それでは第二章のしめくくりとなる今回の内容に入ります。
5「神を知る」西洋と「神になる」東洋
石川氏は西洋の伝統的な自然観について、次のように述べています(『複雑系思考でよみがえる日本文明』)。
外界としての「自然」とあり方としての「じねん」
…このように、東洋では「生き方を学ぶ対象としての自然」という伝統が根づいてきたが、西欧にはこのような伝統はない。
西欧の文化は、キリスト教的な世界観を土台として発達してきたが、キリスト教においては、万物は神の被造物であり、さらに人間だけは神に似せて創られた特別の被造物であり、人間以外の被造物を支配し、管理し、利用する権限を神から与えられているとみなしている。
人間は他の被造物よりも上位の存在とみなされているから、自分よりも下位の被造物としての自然界から生き方を学ぶという発想や、自然と一体となることを生き方の理想とするという考え方は、キリスト教的な世界観からは生まれてこない。
自分よりも下位の被造物としての自然界は神によって書かれた書物であり、その書物を読む能力(理性)を、人間は神から与えられているという信念が、西欧人のキリスト教信仰の中から生まれている。
…西欧人が、自然という書物から読み取ろうとしたのは、数学的な美しさであり、数学的な単純性である。物理学は自然の仕組みを、単純で美しい数学的な法則にまとめあげる作業であるといってもよい。
それは「いかに生きるか」という課題とは別次元の課題である。近代科学においては、自然は仕組みを「知る」ための対象であって、生き方の真理を「学ぶ」対象ではない。近代科学においては、仕組みを「知る」ことと、生き方を「学ぶ」ことは分離している。
世界観の相対性と文化の相対性
…日本の禅の修行の中で用いられる禅問答は自分がこだわっている世界観から脱却するための訓練であるといってもよい。また、神道に見られる文字で書かれた経典がないという伝統は、言語によって規制される世界観へのこだわりを超越しようとする態度の表れとみなすことができる。
自然(しぜん)と自然(じねん)の違いからもわかるように、言語自身が世界観を表現し、言語によって自らの思想が制限されるからである。
文字による経典を持たない神道や禅問答という日本文化の伝統は、言語や世界観の束縛から解放されて、自由闊達に生きる道を追求するという意味では、高度の思想、哲学を内包している。
それは、言語や論理によって体系づけられていないから、言語や論理を重視する西欧的な伝統からみれば、思想や哲学として認められない。
禅問答や徒弟制度という形で伝えられてきた日本文化の伝統は、心と体を分離して、心だけで理解することは不可能で、心と体を一体として体得する以外に道はない。ここで求められているものは、明らかに分析知とは異なっている。
思想・哲学を心の問題と考え、体から分離して理解する伝統に慣れている西欧人が、自分たちに理解できないからと言って日本には思想・哲学がないと判断するのは不適当であるし、西欧人の批判を受け入れて、このような伝統を「遅れている」と、日本人が卑下する必要もない。
日本文明が、生き方として高度の思想・哲学をもっているとしても、それを土台として、西欧文明に批判を加えるのも同様に適当ではない。
西欧で発達した合理思想は、人と自然を分離し、心と体を分離し、感覚と理性を分離し、理性によって理解できる数式という言語で自然を記述するという方法によって、大きな成果を上げてきた。
この事実は、物質世界の仕組みを理解するためには、少なくとも、これまではこのような方法が有効であったということを意味する。
心と体を一体として生き方を追求する日本文化の伝統が、近代科学を創る土壌として不適当であったのは明らかである。なぜならば、文明を支える世界観と、自然に対する態度が本質的に異なっていたからである。
日本文明は連続的世界観を土台とし、西欧文明は非連続的世界観を土台として形成されてきた。世界観が異なるために、文明的な特質は大きく異なっている。この事実を無視して、安易に文明の優劣を論ずべきではない。
いずれの世界観も相対的なものであるから、それを土台として発達した文明も相対的なものであり、それぞれに長所・短所をもっている。二十一世紀の文明を創造するためには、自国の文明を相対的な視点からとらえ、その長所を生かし、短所を補う道を探さなければならない。
中世までのキリスト教の(修道生活での)身体行は、労働を通してこの世を創造した神を感じることでした。
後に、信仰としての「神を知る」という知的探究が、近代以後「科学的行為」へとシフトしたのです。
神から与えられている「その書物を読む能力」とは、デカルトが、人間だけが持つ霊魂として定めた「理性」です(第三章 三 1参照)。
西洋近代に始まる科学的探究とは、理性によって、神がつくった自然という書物を解読しようとした(=神を知る)ことでした。
自然を対立したものと見なす西洋の非連続的自然観では、信仰とは「神を知る」ことであり、これが「近代科学」となったのです。
一方、仏教の中で「悟りを開く」ことを専一とする禅は、「一日坐れば、一日仏に近づく」というもので、生きながらに「成仏」することを目指すものです。自然と融合する東洋の連続的自然観における諸宗教の身体行は、自分の裡にある「神性(仏性)に目覚める(=神になる)」ことです。
近代科学と東洋宗教という行為は、「神を知る」と「神になる」という相違であり、それは、神が自分の外にあるか、裡にもあるか、という違いなのです。