野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第一章 一1 活元運動(動く瞑想法)を通じて裡の自然を掴まえる

一 人間の自然とは―自然と対立しない東洋的自然観に根ざす野口整体の生命観

1 活元運動(動く瞑想法)を通じて裡の自然を掴まえる

「自分の健康は自分で保つ」という理念は、野口整体の全生思想(全力を発揮する生き方)の基本です。一方、西洋医学は、「健康は医療が管理する」というあり方です。

 野口整体と西洋医学の間には、生命をどのように捉えているかという、生命観の上での大きな相違があり、これが健康観、そして病症の捉え方・向き合い方に反映しているのです(第一部第一章 一 1参照)。

 このような生命観の相違は、近代科学の「自他対立・支配」と、東洋宗教の「自他融合・自然(じねん)(註)」という自然観の違いから生じているのです。

(註)自然(じねん) 

 明治時代、Natureの訳語として採用された「自然(しぜん)」という言葉は、もともと自然(じねん)というもので、「あるがままの状態・おのずからそうであること」を意味する。Natureの訳語としての意(外界の自然)も、日本では人間と対立する自然ではなく、人間もその一部である森羅万象、天地万物を包含していた。

キリスト教的世界観の中で育まれた「自然」(しぜん)は、神の被造物を人間が支配するという、人間中心の考え方。

四季があり、自然が豊かな日本では、自然崇拝や精霊崇拝(アニミズム)などの古神道があり、森羅万象そのものに神々や霊性を感受していて、人間はそれらを制する立場にはなかった。

「自分の健康は自分で保つ」と、師野口晴哉が説いたのも、人には、活元運動という自然(じねん)のはたらきが具わっているからこそなのです。

 そして、野口整体の思想は、「自己の内なる自然と一体となる」というものです(師野口晴哉が自然という言葉を使う時「じねん」の意である)。

「人間の自然」について、師は次のように述べています(『月刊全生』1994年5月号)。

裡(うち)の自然

近頃〝自然〟ということが盛んに言われています。つまり、山へ行けば自然であるとか、木が在れば、それで自然だとか言っているが、そうではない。一人一人の人間の生き方が体の要求に沿っていくことが自然な生き方だ、と言わなくてはならない。

そういう意味で、山に登ったからといって自然に近付くわけではない。眼をつぶって、自分の意識をなくして、もっとその奥にある心に触れるとか、自分の無意識の動きに生活を任せる方が、却ってその中に自然というものがある。

だから外にいろいろ求めるよりも、自分の裡の自然を先ず掴まえだすべきで、それには活元運動は近道です。

 師はこのように、要求に沿う生き方を「自然」と説きました。科学的社会の価値観を(頭で)捉え、理性的にのみ対処する生き方ではなく(=利害得失や毀誉褒貶に重きを置かず)、身体に具わる要求を活用する生き方「全生道」を説いたのです。

 要求に沿って生活することは、理性に対して「身体性」を拠り所とする生き方((また、「感性」を拠り所としての生活)、と言うことができますが、活元運動による身心の鍛錬は、これを磨くものです。師は「健康の原点」を次のように説いています(『月刊全生』増刊号)。

晴風

 健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。

 どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないようでは鈍っていると言うべきであろう。体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。

 楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべきである。

 右のように「いのちで感ず」ることができるよう、「体を調え、心を静め」ることが、「整体」の道です。

 野口整体でいう「整体」というあり方には、坐禅の基本「調身・調息・調心」という、自らの「身と心」に向き合う態度が含まれています。このような主体的な生き方を説いたのが師野口晴哉です。