野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 三 1
三 師野口晴哉が捉えていた科学の「心身二元論」と「機械論」的生命観
今回から第四章三に入ります。ここでは、野口晴哉が「学問がこれから心身一如としてさらに発達するか、あるいは今のまま物の科学としてだけ存在するか、それがこれからの世の中を大きく左右する」と述べた講義内容が中心になっています。
現在、世界規模で新型コロナウイルスのワクチン接種が進み、治療薬の開発に莫大な予算が投じられ、変異株との戦いが繰り広げられています。
こうした研究や医療は、これまで学んだ近代科学の原則に則り行われ、野口晴哉の言う「物の科学」は、コロナ禍で一層発展したようです。
一方、コロナ禍で精神疾患がかつてないほど増加し、抑うつ症で受診する患者は、日本では倍増、アメリカでは3.7倍増という報道がありました。文中にうつについての記述がありますが、これは金井先生が自身の指導を通じて得た実感であり、現代人のストレス耐性の低下についての問題提起とご理解ください。
この、物と心の分離の問題についてもう一度考えながら、1971年の野口晴哉の言葉と金井先生の文章を読んでみてください。
1 科学にはない潜在意識を扱う野口整体― 感情と身体感覚を自我に統合する
次の文章は、私がこの道に入って四度目の正月潜在意識教育法講座(1971年1月~5月)の講義録(『月刊全生』2006年)の一部です。
ここで師野口晴哉は、科学の「心身二元論」と「機械論」的生命観について、次のように講義しました(上・中・下巻執筆を通じ、この内容の詳細理解に至る)。
潜在意識 3
潜在意識の問題というのは、体とくっついていると言ってもいいし、むしろ体の方にあると言ってもいい。意識でいくら鍛練していても、体の方がちょっと変わると全部変わってしまう。だから潜在意識というのは体にくっついている心と言ったらいい。
心理学と生理学が別々になっているのは、観念とか意志とかいう体と離れた心、あるいは、せいぜい随意筋にくっついているだけの心を対象にしているために、心と体が分けて考えられているのだと思うのです。
体と不可分である潜在意識を対象とした師野口晴哉(註)は、科学の基となった近代哲学(理性主義)は「観念とか意志とかいう体と離れた心、あるいは、せいぜい随意筋にくっついているだけの心」を対象にしていることで、心(頭)と体が分かれている(心身二元)と述べているのです。
(註)野口整体は、現在意識ではなく、潜在意識を対象とする。
この文章で師が言う「観念とか意志」とは、「理性によって解る範囲」である現在意識というものです。私は第三章三 3で、現代人の「心の世界の狭さ(=意識に偏る)」について、「意識の世界(理性で分かる範囲)のみとなって、感情や無意識の世界が分からなくなっている」と述べました。
デカルトが説いた「心(=精神)」とは理性のことですから、当然、科学的心理学が扱う「心」とは、師が批判するような頭にある表層の心なのです。この心が発達することが「近代自我」の確立です。
表層の心だから駄目だというのではなく、深層にある心とは異なるものが理性だと理解する必要があります。
現代に多く見られる「うつ」的な人は、仕事をする上での「自我意識・理性」の発達はそれなりですが、意識の下部、心の内面(感情の領域)に未発達な状態があるのです。
感情が意識されず(自覚できず)、無意識のままだから感情に支配され、身体に鬱滞したそのエネルギーが頭を働かせているのが、「うつ」症状なのです(意識下の陰性感情が雑念となり意識に影響)。
感情と、これとつながる「身体感覚」(体を感じる)を、意識化することが必要なのです(=感情・身体感覚を自我に統合する)。
野口整体で目指すのは、潜在意識、また無意識と呼ばれる「身心」の発達と成長なのです。