野口整体と科学 第一部 第四章 科学の知・禅の智 二6③
6「人間と自然の関係」における西と東の相違
③「感ずること」と「自然」
(湯浅)氏は、『「気」とは何か』おわりに で
「主体的体験の立場からとらえられる自然は生きた生命的自然である。それは感覚(外界感覚としての五感)によって認識できるわけではないが、われわれの主体的体験を通して感得(奥深い道徳や真理などを感じ悟ること)される世界である。自然はいわば生きた心ある自然として感じられているのである。」
と括っています。
湯浅氏が説く「主体的体験の立場からとらえられる生きた生命的自然、主体的体験を通して感得される・生きた心ある自然」について、師野口晴哉は「感ずる」という言葉を挙げ、次のように表現しています(『月刊全生』増刊号)。
晴風抄
最初に感ずるということがある。
そして思い考えるのである。
あらゆる行動の出発は感ずることによってなされる。考えているうちは行動にはならない。
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感ずることを豊かにする為には、その頭のなかをいつも空にし、静かを保たなければならない。頭を熱くしていては感ずるということはない。
自分の顔を考えていても、利害を思っていても、毀誉を思っていても、感ずるということはなくなってしまう。
感ずるということは頭ではない。
感ずるということは生命にある。
感じているが行動できないという人がある。
感じていないのである。
もし感じてできないことがあれば、それは頭で感じている時だけだ。
頭を空にして感じたことは、そのまま行動になる。
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感ずる者の心では、感じない者の見る死んだ石もお月さまとして映る。
太陽も花も自分も、一つ息に生きている。
道ばたの石も匂い、鳥も唱っている。
感ずることによってある世界はいつも活き活き生きている。
見えないものも見える。動けないものも動いている。
そしてみんな元気だ。空には音楽が満ちている。
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自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。
しかし投げ遣りにして抛っておくことは自然ではない。
自然は整然として動いている。それがそのまま現われるように生き、動くことが自然なのである。
鍛錬しぬいてのみ自然を会することができる。
懐手で知った自然は自然ではない。
頭で造った自然はもとより人為のものである。