野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 一 2

2 心身二元的西洋人―「我と物との対立」

  師野口晴哉は最晩年、とりわけ活元運動の普及に力を注ぎました。『健康生活の原理 活元運動のすすめ』(全生社 1976年6月25日)の初出版が亡くなられた三日後であったことは、これが、師のこの世への「置土産」であったと、後日痛感したものです。

師は、1960年代(後半と思われる)、植芝盛平翁の高弟で合気道の達人でもあった津田逸夫氏(註)という弟子に、ヨーロッパに活元運動を広めるよう託しました。

(註)津田逸夫(1914 ~1984年)

日本の合気道家、哲学者。フランス留学後、1940年に日本に帰国し、その後合気道植芝盛平と整体協会創設者である野口晴哉に師事。

 

1897年、鈴木大拙氏(臨済宗)がアメリカに渡り、1967年には弟子丸泰仙氏(曹洞宗)がヨーロッパに渡って禅を説いた(註)ように、師が、西欧人に対して、野口整体の思想と活元運動を広めることを考えられたのは、「心身二元の問題に対してのことであった」と、科学哲学の勉強を通じて、ある時、直観的に理解するに至りました(禅の思想・行法は身心一元性を目指すもの)。

(註)鈴木大拙(1870 ~1966年)

1900年、アメリカで禅書の英語版を著す。後に1969年、鈴木俊隆師(曹洞宗 1905 ~1971年)が渡米し、禅を広める。

弟子丸泰仙(1914 ~1982年)

 沢木興道の下で出家。1967年フランスに渡り、69年ヨーロッパ禅協会を設立。ヨーロッパに禅ブームを起こし、パリの仏国禅寺をはじめ各地に禅道場をひらいた。ヨーロッパ開教総監。

 弟子丸氏は、ヨーロッパ中に25万人の弟子を作ったという(沢木興道門下の村上光照師談『仏教のコスモロジーを探して』サンガジャパン)。

 

一では、津田逸夫氏の文章を基軸として、西洋人の二元的精神に対する活元運動の意義について述べていきます。

 津田逸夫氏は、『月刊全生』(1979年2月号)掲載の紀行文「ヨーロッパ事情」の中で、「ヨーロッパ人の根本には我と物との対立がある」ことについて、次のように述べています(( )は金井による)。

 野口晴哉先生からヨーロッパに活元運動を広めてもらいたいという話を伺ったのは、もう十年以上も前のことです。果してヨーロッパ人がこのような不可解なものを受けいれるかどうか、全く未知数でした。

 僕には資金もないし、後援者もない、全く単身でこの冒険にいどまねばなりませんでした。遂に八年前、停年まで後四年というところで退職し、意を決して前進しました。

 始めに生命あり、僕の生命が他の人々の生命に語りかけるのだということ以外に、何も頼みにするものはありませんでした。

 この八年間の体験から得たものを、簡単にご紹介します。

ヨーロッパ事情

日本人にとってヨーロッパとは何かといえば、それは現代文明の源泉地であるということ、明治維新から百年間、日本がたどって来た驚くべき変遷はヨーロッパの影響なくしては考えられないということ、こういう点から、地球上で特殊な重要性をもった地域と思われています。この重要性は主として文化的なもの、思想的なものであって、ここにヨーロッパの特殊性があるといえましょう。

日本で我々がその恩恵を被っている種々の文明の制度及び利器は、もちろん日本人の独創性と勤労精神によるものですが、その源へさかのぼって行けば、理論(哲学・近代科学)があり、更にさかのぼれば、ある原則(心身二元論・機械論的世界観)に行きあたり、更につきつめれば、或る種のものの考え方(分離思想=非連続的自然観)にまで到達します。

 このものの考え方は、一口にいえば、我と物との対立(外界の自然との対立・二元論)にあるといえましょう。ルネサンス以後、古代ギリシャの再発見により、人間は次第に自分の意志というものを確立するようになりました。

 すべては神の意志であるという宗教の絶対的権威から、科学は次第に離脱して、独自の道を歩くようになりました。こうして、人間は自然を支配するものであるという考えが強く打ち出されたようです。

    この津田逸夫氏の文章(とくに傍線部)では、科学を生みだした西洋人の世界観とはいかなるものかについて述べられています。これは、第二章一 1「近代科学の元にある、人間と自然を分離する思想・非連続的自然観」を再読することで、理解が進むことと思います。