野口整体と科学 第一部第五章 東洋宗教(伝統)文化を再考して「禅文化としての野口整体」を理解する 一 5
5 科学を通して日本人に根を下ろした「対立」― 西洋近代医学の対立「健康×病気」
福島原発事故(2011年3月11日)は「科学至上主義(科学力によって世界を支配することができる)」のもたらしたものだと言えます。
この事故処理の問題を抱える日本人にとって、科学至上主義の敗北と言うべき時代、改めて「二元論」を知り、「身心一元論」という、古くは「心身一如」と表された意味を深慮するのは、これからの時代を考えていく上で重要なことです。
津田逸夫氏は2で紹介した紀行文「ヨーロッパ事情」で次のように続けています。
ヨーロッパ事情
…こういうような思想的背景のある所で、気とか、整体とかの観念を理解させることは容易ではありません。日本は、いかに西洋化したとはいえ、いまだ自然と融和するという考えが根強く残っており、古来の種々の伝統によって継承されています。
愉気というものも、自他融合が基礎にあって、始めて成立つものといえますが、対立を基盤にしたヨーロッパの精神的風土(自他分離による個人主義)でこれを受けいれさせることは、容易なことではありません。ただちに曲解されることは当然です。
手っとり早く言えば、自分には他の人にない超能力があるとか、このような超能力を使用して、スプーンを曲げたり、病気を治したりできるかといった類の解釈です。そうなると、折角の野口先生の永年の努力は、水泡に帰することになります。それは特殊能力崇拝とか、聖人崇拝に化けてしまうことになります。
そんなことは、新興宗教とか、手品師に任せておけばよいことです。我々の使命は、人々の眼を覚まさせることです。始めに生命があるという、この簡単なことに気づかせることです。この簡単なことが判らないために、全人類は右往左往しています。
師野口晴哉が、ヨーロッパに野口整体の思想と活元運動を広めようとしたのは、2で述べた心身二元の問題と共に、自然治癒力という概念がない西洋人(第一章一参照)に、活元運動を行うことで、「自ら健康に生きる力が人には具わっている」ことを自覚させる思想啓蒙活動というものでした。
ヨーロッパ事情
僕がヨーロッパを選んだのは、そういう思想の根本問題に触れたい為です。アメリカも一応廻って来ましたが、僕の満足する基盤はありませんでした。合衆国はある意味では活発です。だが僕はこの活発さを避けました、事業が目的の人々にはよい所です。
それに比べてヨーロッパは、ジイチャン、バアチャンの隠居所に見えます。批判はするが自分自身では何もできない人々が多いのです。何の為にこんな所を選んだのでしょうか、体の動きのにぶい人々の停滞した雰囲気がなんで面白いのか。
だが、アメリカ大統領や日本首相の名は忘れても、コロンブス、ニュートン、アインシュタイン、パスツール、フロイト等の片カナの名、それはすべてヨーロッパのものですが、これらを無視して現代の教育を受けるわけにはいきません。
現代を川の流れにたとえれば、ヨーロッパは川上にあたるわけです。川上に赤い色を流せば、川下も赤くなります。川下に赤い色をどんなに流しても川上は影響されません。こういうわけで、僕は思想問題ととりくんだわけです。
しかしながら、僕は東西文化の比較論とか優劣論とかを展開したわけではありません。
高度経済成長時代(1954 ~1973年)の後、1979年にこの文章は書かれました。その後30年余を経、さらに伝統文化を喪失した現代の日本では、欧米化が進み、西洋文明の影響は一段と濃いものとなっています。
近代科学の元には「対立」があるのです。そして、この科学を生み出した西洋文明の根本に存在し続けてきた「対立」が、今や私たち日本人の生活にも深く根を下ろしているのです。
私がとりわけ訴えるべきそれは、西洋近代医学による「健康×病気」という「対立」です。
野口整体の世界を知る上では、先ず、「健康とは何か」について改めて考えることから始まります。
師野口晴哉が説いた「健康とは」について、先ず「西洋医学的な観点とは異なるものである」と認識することが必要で、これは、野口整体の世界を理解する上で肝要なことです(第一章参照)。
野口整体の生命観は「心身相関」であり、病症と健康は「非対立」という、西洋医学との二つの大きな相違点があります。
また、敗戦後の科学的教育は、理性至上主義教育であり、理性に偏って意識が発達した現代の日本人には、「うつ」的症状を抱える人が多くなりました。先進諸国に共通して見られるこの傾向は、「近代自我」の二元性、「理性と感情」の対立によるものです。