野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二部 第一章 一2 整体を保つことで自然健康を保持する ― 自然(弾力)を保つためのはたらき「病症」

2 整体を保つことで自然健康を保持する― 自然(じねん)(弾力)を保つためのはたらき「病症」

 本書の主題は明治以来の西洋文明の「二元性」と、敗戦後の伝統文化を切り捨てた科学的教育によって、その影響を大きく受けている現代日本人の問題点(理性至上主義によって身体性が衰退し、重心位置が変化した問題。第一部第五章二で詳述)、そして活元運動で目指す「一元性の探求」です。

 坐禅や活元運動という身体行の実践は、「二元論から一元論へ」シフトする、という哲学的意義が込められているのです。

 西洋医学の「健康×病気」という二元性に対する野口整体の一元性について、師野口晴哉は次のように述べています(『月刊全生』増刊号)。

晴風

人間の体は絶えずどこかが毀れている。そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区分はつけられない。

すり傷はヒリヒリ痛む、しかし強い打身は痛みを感じないで、後になって大きな変動の基となる。癌にしても、肝硬変にしても、脳溢血にしても、皆その間際まで自覚症状がないが、それを、倒れる直前まで健康だったと言えるのだろうか。

私は多くの人々に活元運動を奨めてきたが、その目的は体を整えることであって、病気が治ったり、病気にならなくなったりすることではない。

異常を敏感に感じて素早く対応できる体にする(整体になる)ことであり、弾力ある体の状態を保とうとする働きを活発にすることを言うのである。「健康とは病気にならないこと」という観念から脱却すべきだ。

 私が実家に行った時のことですが、久し振りに見る父親の坐っている姿に異様さを感じたことがありました。胡坐で蹲(うずくま)るように坐っていた、以前とは大きく異なるその様に、私は「あんなに背が丸くなった!」と、その印象を兄弟に告げたことがありました。父親が脳梗塞で倒れたのは、それから間もなくのことでした。

 観方は容くありませんが、医学的に大きな変動の前には、このように身体全体が変化を起こしているのです(生きて動いて絶えず変化する身体とはこのこと(1のライプ))。しかし、異常感を感じていない(身体の変化に対する自覚がない)のです。

 異常感があって、回復の要求が起こる(恒常性維持機能がはたらく)のです。それで師は、整体とは「異常を敏感に感じて素早く対応できる体」と、説いたのです。

 引用文にある「癌・脳卒中・肝硬変」などは、体が鈍くなったために起こる病気であり、鈍くなったことで異常感がなく、それで回復の要求が起こらなくなった結果なのです。

 師野口晴哉が説く整体とは、弾力ある体の状態を保とうとするはたらきが活発なことであって、これは、身体(無意識)に具わるじねんの「動的平衡(註)」というはたらきに信を置く思想なのです。

 師の引用文を受けて、敢えて「病気」という言葉を用いるならば、「必要なら病気が出て(乱れた秩序が立ち直ろうとする時発症し)、順調に治る体」が整体であり、「整体を保つことで、全生する」というのが野口整体の思想(生き方)なのです(従って、自然健康保持とは、病気をしないことではない)。

(註)動的平衡

 生物学者福岡伸一氏の説。シェーンハイマー(生化学者 1898年生 アメリカ)の提唱した「生命の動的状態」という概念を拡張し、「生命とは動的平衡にある流れである」という概念を提示した。それは「生命とは代謝の持続的変化であり、新陳代謝の秩序は、絶え間なく壊されることで維持されている」というもの。

 生物は、個体全体の死よりも早く自らを壊し、作り直すことで生きている状態=秩序を維持している。また、平衡が崩れると、その事態に対してリアクション(反応)を起こし、自己再生を図る。この反応が病症である。