野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第一章 一3 裡の力を振作する― 本物の活元運動は美しい

 今回の内容には「本物の活元運動」という言葉が出てきますが、これはこれから活元運動を始めようと思っている方、また現在実践している方、皆に知って頂きたいことです。活元運動は出るようになるまでに時間がかかる人も多いのですが、出るようになればそれでOKなのではなく、本物の領域の活元運動が出るようになるまでの過程、そして必要な時に本物の運動が出るようになるまでの過程があり、運動自体も洗練されて行きます。

 活元運動が出る人も、動いていればそれでいいのではなく、思うようにいかない時も多々あること、活元運動は質的に向上していくということを、初心に戻って理解して頂けたらと思います。

3 裡の力を振作する― 本物の活元運動は美しい

 愉気(手当)法をすることで、活元運動を喚起・誘導することができますが、準備運動(第二章三で詳述)を行うことが順当です(体育としての活元運動の基本)。

 活元運動が身に付くと体が敏感になり、異常が生ずるや、それを調整する運動が自ずと出るようになるのです。錐体外路系が活発にはたらくことは、身体の自律的作用による回復なのです(調整する運動とは、時に病症も含み、軽い状態で病症が自然経過することで「整体を保つ」というあり方が野口整体(大病する人は普段異常を感じず、病症が表れない))。

 そして、活元運動を長い期間行い体が整うと、その人の運動は円滑で調和のとれたものとなり、その様は美しいものです。

 師野口晴哉は「活元運動のすすめ」を、次のように表しています(『健康生活の原理』全生社)。

錐体外路系の重要性

…一般に活元運動は、病気の治療法であるとか、健康法であるとかいうふうに解されているようですが、それはあくまでも結果でありまして、目的ではありません。体操とか体育とかいうと、意識して体を動かす面のことだけが認識されがちですが、われわれが生存を全うしていけるのは、意識して体を動かす運動よりも、無意識に行なってしまう運動の恩恵に浴していることのほうが大部分を占めているといえるのです。ですから、この無意識に行ってしまう錐体外路系の運動を積極的に訓練して、われわれの日常生活に活かしていきたいというのが、みなさんに活元運動をおすすめする所以なのであります。

 師は、愉気や活元運動は、痛みを止めたり熱を下げたりするために教えているのではないと強調しました。

 師はそうした反応、一般に病気と思われているものは、身体を立て直そうとして起き、立ち直って行く途上で身体に現れているはたらき(「動的平衡」)なのだと説き、『風邪の効用』を著しました。

 こうして、半世紀に及んだ師の「整体」という活動は、「自分の裡にある生命の力を喚び起す」という一点に向けられていたのです。

 気の研究家・小林幹雄氏は「野口整体における気の研究」と題した文章で、次のように述べています(『気で治る本』宝島社 1995)。

整体とは病を得て、それを活かすこと

…整体法は、徹底した肯定性の哲学に立脚している。痛みも苦しみも悲しみも、対立も矛盾も葛藤も、すべてが自然の秩序の一環として受容される。

肉体も精神も、異常も正常も、健康も疾病も、分けることのできない統一であり、いずれか片方に価値が付与されマイナスのものが排除されるという構造は存在しない。

全生とは無病であることではなく、病を得てそれを活かすことである。苦や逆境をどう活かすか、楽や順境をどう生きるか、それぞれのあるべき位置が追求されるにすぎない。貧しさはいつも負ではない。豊かさは必ずしも正ではない。充足や満腹のうちにも不快があり、欠乏や空腹のうちにも快感がある。感受性を開拓し、生きる領域を拡げていくことこそが、動物にはない、人間にとっての自然なのである。

野口晴哉が語る自然は、天然や野生を重視し、人為人工を排した「自然」とは似て非なるものである。むしろそれは、いわゆる文化と自然の対立を対立として受けとめたうえで、文化を活かすべき時を知り、自然に還るべき時を知り、人間に内在する植物的能力、動物的能力、精神的能力のすべてを活かしきる生き方をさしている。

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