第二部 第三章 二3 近代的心身観と東洋的身心観の相違―「人間の自然」を保つための活元運動
3 近代的心身観と東洋的身心観の相違―「人間の自然」を保つための活元運動
2の師野口晴哉の文章には、これまで述べて来たように、西洋のスポーツと活元運動との相違が表現されています。
活元運動は、意識が内に向かう訓練(瞑想法)であり、意識と無意識が統合された感覚を得る(統一体となる)時が本物の領域です。
意識は訓練されていた真田さんですが、現代人一般に見られるように、その意識は無意識と統合されたものではなかったのです。
真田さんの1での文章「思うように身体を動かすことができず」という表現からして、彼は、体は「頭(理性による意思)で動かすもの」となっていたのです。これが「理性と随意筋による自己支配」という近代的心身観なのです。
かつて、東北帝国大学・哲学講師として日本に滞在(1924年~29年)したドイツ人のオイゲン・へリゲルは、弓聖・阿波研造を師として弓道に取組みました。そして、帰国後講演した原稿から、後に名著と呼ばれる『日本の弓術』(柴田治三郎訳 岩波書店)を著しました(第三部第一章にて詳述)。
ここに著されている「西洋人と日本人のものの考え方の違いや禅の精神の理解への戸惑い」という内容は、スポーツと活元運動の違いにも通じる、近代的心身観と東洋的身心観の相違なのです。
活元運動は、脱力(力を抜く)が基本となるという点で、弓道と同じくするところがあり、これを体得しようとする人は、改めて東洋的身心観に心を向ける必要があります。
活元運動と、これを円滑にする正坐を通して、心と体を健全ならしめる身心のあり方「上虚下実」を身に付けていくことが身心統一への道です(「上虚下実」は東洋的身体の基盤)。
このような身心を以て全力を発揮することが全生です(こうして自己の生命(無意識)に対する信頼を得ることができる)。
これは、西洋(近代)の「心身二元論(心身分離)」と東洋の「身心一元論(身心一如)」という相違なのです。