野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 三1 無心を妨げていたヘリゲルの近代的精神⑤

 今回、ヘリゲルは「やってはならないこと」をついにやってしまいます。それは「できるように見せる」ということです。ヘリゲルは師に対する不信感が拭えなくなっており、しかもこのような行為は背信、裏切りだということが分からなかったのです。それは自分に対する不信でもありました。

 それでは今回の内容に入ります。

⑤三年目

 そして稽古は三年目に入りましたが、ヘリゲルはますます行き詰まり、「困惑を抑えるために、矢の射放ち方(離れ)はじつは技巧の上だけで解決されるのだと、自分に言い聞かせて」(『日本の弓術』)いました。

 矢を射放つには特別な仕方があり、それによってさながら無心のうちに射放つことができるに違いないと考え、夏休みの間に指を開くやり方を研究し、無心に放たれたように見える(指を目立たぬように弛め、弦が不意に弾かれ、さも無心に矢が放たれた如く見える)技巧を工夫したのです。

 ヘリゲルはその時の自分を「私が弓術を習おうと思ったそもそもの目的たる精神統一の修練を、もはや幾分諦めていたことは言うまでもない。このようにして、神秘的な沈思の実践に親しもうとする私の熱望は、ついに充たされずに終らなければならないかと思われた。」(同著)と振り返っています。

 へリゲルは夏休みが終わってすぐの稽古で、その射方を阿波師に見せ、「お褒めの言葉」を期待していると、師はいかにもそっけなく「どうかもう一度」と言い、もう一度へリゲルはやって見せました。その時の師の様子を、彼は次のように記しています(『日本の弓術』)。

…私は昂然として(自負があって意気の上がる様)先生の顔を見た。しかし先生は一言もなく歩み寄って、私の手から静かに弓を取り、それを片隅に置いた。先生は無言のまま座布団に座り、周りにだれもいないように、ぼんやりと前方を見ていた。私はそれがどんな意味であるかが分かって、立ち去った。翌日私は、自分が先生の裏をかこうとして深く先生を傷つけたのだということを聞いた。

 師の仕種は「破門」の意であり、ヘリゲルは「自分にとって精神的にはとうてい達しえないと思われることは技巧的に解決するほか道がないと思う」と申し述べて、師に窮状を訴え、謝辞を聞き入れてもらいました。 

 この時のことを、『新訳 弓と禅』では次のように語っています(Ⅶ.破門事件と無心の離れ)。

 破門事件

翌日、小町谷氏が、師は今後私の指導を断わると言われたことを伝えてきた。私が師を裏切ろうとしたからという理由であった。

 このように師が解釈されたことに大変驚いて、私は小町谷氏に、常にただ一歩も踏み出せないために、(なぜ)このような方法で射を放つようになったかを、説明した。師は、彼のとりなしによって譲歩する気になられたが、稽古の継続は、一に私が、「大いなる教え」(大射道教)の精神に二度と背かないと誓うことにあるとされた。

 ヘリゲルは師に、自分の滞在期間に限りがあることを伝えましたが、これに対し師は「目的への途は、計ることが出来ません。何週間後か、何か月後か、何年後かと言っても、何の意味があるでしょうか」と。

 ヘリゲルは「しかし、私は中途半端にやめなければならないのだとしたら、……」、さらに師は「本当に無我になれたなら、いつでもやめることが出来ます。ですから、そこを稽古しなさい」(『新訳 弓と禅』)と、徹底して「無我・無心」を説きました。

 小町谷氏の「ヘリゲル君と弓」(『日本の弓術』)によると、1910(明治43)年、氏が旧制第二高等学校に入学した頃、阿波師は弓道師範として二高に赴任しました。当時まだ三十歳の阿波師は、「弓道というよりも弓術を教え、姿勢のことをやかましく言われた。的中ということも重く見ておられた。そしていつも私どもと一緒に競射をやられた。」といいます。

 しかし、1924(大正13)年に小町谷氏が東北帝国大学教授として赴任し再会した時には、師の射は至極円熟し「先生はもはや弓術は説かず、もっぱら弓道を説き、的中を重く見ないで、一射一射に全精神をこめなければいけないということを、力説しておられた。」とのことです。

 阿波師はヘリゲル来日の前年の1923年、弓道による人間教育を標榜して「大射道教」を設立しました。

こうして師は、弓道界からの批判を浴びつつも独自の道を歩み、1936(昭和11)年には

「射は人格完成の手段であって、正しき射を修業すれば、一射ごとに人格の向上を計りうる、而して一箭(矢の本数)ごとに完全な自我が宇宙と合体しうるのである。…昔の賢哲は射て自らの徳を省みつつ礼威(自然に人を従わせる厳かな礼の力)の基をなしたが、その射教こそ現代の射の姿である。…射行は一箭ごとに魂を練り、自己を見詰めつつ人格を向上せしめる任務を有するから、徒らに技巧を主としてはいけない」

と述べています。阿波師はこのような思想の下に指導を行っていたのです。

 ヘリゲルはその後一年近くの徹底的な練習を経て、ようやく「離れるまで待つ」ことを会得しました。彼はこの時のことを「初めて先生から完全に認められる発射に成功した。呪縛は明らかに断ち切られていた。良い射方が次第に悪い射方よりも多くなった。しかもどのようにして正しい射方をするかと問われれば、私は知らないとしか答えることができない。自分は少しも手を加えず、またそれがどうなるのか見守ることもできないが、矢はすでに放たれているのであった。」(『日本の弓術』)と述べています。