野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 三1 無心を妨げていたヘリゲルの近代的精神― 自我から無我への大きな峠④

1 無心を妨げていたヘリゲルの近代的精神― 自我から無我への大きな峠④

 

 今日は前回からの続きで、いよいよヘリゲルがどうしたらいいのか分からなくなって行き詰ってしまいます。今日の内容で、ヘリゲルは「あなたは無心になろうと努めている。」と師に指摘されますが、金井先生は生前、これだな…と言っていました。意志の力で無心になろう、なろうと努めてしまうのですね。

 整体的には、無心というのは精神状態であると同時に、ある体の状態でもあります。金井先生は野口晴哉の「脱力」(『偶感集』)が好きで、このブログでも何度か掲載していますがもう一度紹介します。

脱力

体の力を抜きなさい。筋を出来るだけ弛めなさい。体の力を発揮する第一の方法です。

 力を入れ筋を硬くしないと、体力が発揮されないと思うのは間違いです。丸木橋を渡る人や、清書をしようとする人を御覧なさい。固くなっている間は、本来の力を発揮しません。

 恐怖や驚きのまま固まってしまっているような硬直した状態は、決して人間の自然の相とは言えません。

 筋を弛めると、自ずから下腹で呼吸するようになるのです。

 金井先生はこのことを「丹田呼吸のための脱力」と言いました。こういう身心の状態になることをヘリゲルの師も求めているのです。では今回の内容に入ります。

④「無心」が分からず行き詰ったヘリゲル

 ヘリゲルはこの行き詰った時の師とのやり取りを、『日本の弓術』で次のように記しています。

「待たなければならないと言ったのは、なるほど誤解を招く言い方であった。本当を言えば、あなたは全然なにごとをも、待っても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」と答えられた。

私が弓術を習得しようと考えた本来の問題(禅の精神への到達)に、先生はここでとうとう触れるに至ったが、私はそれでまだ満足しなかった。そこで私は、「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」と尋ねた。すると先生の答えはこうである。

――「あなたの代りにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。

この場合、どんな知識や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい」――

先生はこの深い集中に到達する仕方を教えた。弓を射る前の一時間はできるだけ静かにしていて心を凝らし、正しい呼吸によって心中を平らかにし、外部のあらゆる影響から次第に身を鎖して行き、さてそれから冷静に弓を引き、その他はすべて成るがままにまかせておく。

 このように「無我の境」にて射ることを教わったのですが、ヘリゲルは弓を引き絞ったまま立っていることに強い緊張を感じ、矢が離れる時を考えずにはいられず、意志を持って右手を開くことしかできず、矢が「正しく放たれる」ことがないまま、長い時が過ぎて行きました。

 師は、他の多くの弟子たちが何年となく稽古を受けていても、彼より別段射方が優っているわけではないことをほのめかし、「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」と彼を戒めたのです。

 これに対しヘリゲルは「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私には分からないのですから」と、その意志を強調しますが、師は途方にくれ答えようがありませんでした。

 この時の阿波氏の反応について、同著で次のように述べられています。

人づてに聞いた話だが、先生はそのころ、私といううるさい質問者を満足させうるものが引き出せるかも知れないという希望をもって、日本語で書かれた哲学の教科書を数冊手に入れた。その後しばらく経って、先生は首を振りながらその本を投げ出し、こんなものを職業として読まなければならない私から精神的には碌なことは期待できないというわけが大分わかって来たと、漏らしたそうである。

 そして、ヘリゲルは『新訳 弓と禅』(Ⅶ.破門事件と無心の離れ)で次のように記しています。

稽古に対する疑念

一杯に引き絞って満を持して待つことは、単に疲れて引く力が失われるだけでなく、あまりにも耐えがたくなって、沈潜状態から常に引き戻され、離れを行うことに注意を向けざるを得なくなった。

「離れを考えるのをやめなさい」と師は叫んだ。「それでは失敗するに決まっています」

「他にどうしようもないのです」私は答えた。「引き分けていることが、苦痛になります」

「あなたは、真に自分自身から離れていないからこそ、そう感じるのです。それは、単純なことです。何が問題であるのかは、ありふれた笹から学ぶことが出来ます。雪の重みによって、押えられ、より深くなると、常に笹は身動きしないでも、雪は重みで突然、滑り落ちます。

 これと同じように、一杯に引き絞って満を持して待っていなさい、射が生じるまで。そうすれば、本当にそうできます。引き絞りが充実して〔機が熟せば〕、射は生じざるを得ません。雪が重みで笹から離れるように、それを考える前に、発(はつ)は射手から生じざるを得ないのです」

 あれこれと試したにもかかわらず、発が降りてくるまで、気をもまず待つことは、私には出来なかった。相変わらず、ただ意図して放す以外なかった。そしてこの抜けられない失敗は、ますます私の気を滅入らせた。