野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 三2 阿波研造師の最後の手段― 暗闇の道場

 前回までの内容で、ヘリゲルは「的を狙おうとしてはいけない」にまた困惑してしまいました。

 師の求める心は、野口整体で言うと「愉気法」をする時の心得に似ていると思います。自分や相手に痛みがあったり、具合が悪かったりすると、つい「治そう」とか「良くしよう」と思ってしまうのですが、そこから離れなければならないのです。第一部第四章にも出て来ましたが、野口晴哉愉気法の心「天心」について述べた言葉を再度引用します。

天心というのは大空がカラッと晴れて澄みきったような心だ。利害得失も毀誉褒貶も無い、自分の為も他人の為も無い。本来の心の状態そのままの心である。だから病気を治そうとか、早く良くなろうとか、もっと良くしようとかいう俗念を持ってはいけない。きっとよくなるという信念でも邪魔なものの一つだ。(『健康の自然法』)

2 阿波研造師の最後の手段― 暗闇の道場

 兄弟子達に、十年以上修行をしても「無心の体得」が出来ない人が少なくないことを知っていたヘリゲルは、日本滞在期間に限りがあったことで焦り、ある日先生を訪れ「狙わずに中てるということが理解も習得も出来ない」と訴えると、師はついに「最後の手段」を用いることにしました。

 ヘリゲルはそのことを次のように記しています(『日本の弓術』)。

…しかし自分にはできないという意識が、私の心に深く食いこんでいたので、私たちの話はなかなかうまく進まなかった。すると先生はついに、私の行き悩みは単に不信のせいだと明言した。――「的を狙わずに射中(いあ)てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手ではあるが」――そして先生は私に、その夜あらためて訪問するようにと言われた。

 九時ごろ私は先生の家へ伺った。私は先生のところへ通された。先生は私を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ちあがり、ついて来るようにと目配せした。私たちは先生の家の横にある広い道場に入った。先生は編針のように細長い一本の蚊取線香に火をともして、それを垜(あずち・的をかけるために砂を盛ったもの)の中ほどにある的の前の砂に立てた。

…的はまっ暗なところにあり、蚊取線香の微(かす)かに光る一点は非常に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と二本の矢を執った。第一の矢が射られた。発止(はっし)という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこまれた。先生は私を促して、射られた二本の矢をあらためさせた。第一の矢はみごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の

筈(はず 矢の端の、弓の弦につがえる切り込み)に中ってそれを二つに割いていた。

(註)ここには表現されていないが、ヘリゲルは的を見に行ったまま長い間道場に戻って来なかったので、阿波師が的のところに行くとヘリゲルは声もなく座り込んでいたという。そして矢を抜かずに的ごと道場に持ち帰ったとのことである(安沢平次郎が聞いた阿波談『新訳 弓と禅』)。

 その後、阿波師は「…それでもまだあなたは、狙わずに中てられぬと言い張られるか。まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか」と言いました。以来、彼は一切の疑問を捨てて、師に従うようになりました。

 それからのことを次のように述べています。

それ以来、私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた。その果てがどうなるかなどとは頭をなやまさず、まじめに稽古を続けた。夢遊病者のように確実に的を射中てるほど無心になるところまで、生きているうちに行けるかどうかということさえ、もう気にかけなかった。それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである。

一度か二度、狙わずに的を射中てたことがある。しかしそれは私の射方に対する先生の判断に何物をも加えなかった。先生はひたすら射手に注目して、的には目をくれなかった。的から外れた矢でも、先生が注意に値すると見たものは少なくなかった。それは少なくとも心のもち方が認められたからである。

そして私が自分でも中てることはまったく二の次であると考えるようになると、先生が完全な同意を示す矢は、次第にその数を増して来た。矢を射るとき自分の周りにどんな事が起ころうと、少しも気に懸からなくなった。私が射る時に二つの目が、あるいはそれ以上の目が私を見ているかどうかということは頭に入らなかった。

のみならず先生が褒めるか貶すかということさえ、私に次第に刺戟を与えなくなった。実に、射られるということがどんな意味か、私は今こそ知ったのである。このようにして体得したことは、たとえ私の手が突然弓を引くことができなくなったとしても、決して失われることはないであろう。

 ヘリゲルの心が、右傍線部のように変容したことが「無心」を体得したことです。こうして、幾多の禅問答を乗り越え、さまざまな迷いを経た数年の後、彼はたしかに「無心」と「射られる」ことを体得したのです。

また『新訳 弓と禅』では、ヘリゲルは暗闇の道場でのことを、次のように述べています(Ⅷ.稽古の第三段階―的前射―射裡見性)。

「以心伝心」の稽古

 師は、この二射によって、私をも射貫いたことは明らかであった。一晩の内に、私はすっかり変わってしまったかのように、矢がどうなったかあれこれ考える誘惑には、もはや陥らなかった。師は、的の方は決して見ず、射手のみを見つめるということによって、私のこの態度を後押ししてくれた。あたかも射手を見ただけで射がどうなったかが、確かに読み取れるかのように。

 そのことを尋ねると、師はあっさりと認められた。また射手についての判定の的確なことは、矢の判定の的確さに何ら引けを取らないことも、新たに確認した。師は、このようにして、最も深く集中して、道の精神を弟子に伝えたのである。私自身、長い間疑っていた経験があったが、以心伝心ということが、単なる言葉の綾ではなく、明らかに認め得る実在する事象であることを、確認出来ると言って憚らないものである。

 阿波師は、「矢がどうなったか」ではなく、ヘリゲルの姿が「無心であるか、否か」だけを観、道の精神を伝えようとしました。この時、ヘリゲルは「以心伝心」によって、「師の心」を体得したのです。