野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第一章 四3 「正坐」という日本の伝統文化に根ざした野口整体

3 「正坐」という日本の伝統文化に根ざした野口整体

 茶道・剣道など、「道」と名のつくものにおいては、必ず行儀や「礼儀」作法が重要視され、身に付くよう指導されます。

 師野口晴哉は、「整体操法は生命に対する礼である」と、その「心」を教示しました。

「礼」を以って接することで、相手が尊厳ある存在になり、自分も相手に「礼」を持って遇される存在となるのです。互いに尊厳ある存在として敬意を払うことで、高めあうことができることを「礼」は教えています。

 そこには必ずというほど「正坐」がありました。

「正坐」は、身体の裡にある「仏性」を、自分と他者に感じるための「型」なのです。

 私は若い人に、何か一つで良いから、「和の習い事をやるといいね」とよく言うのですが、身体的・無意識的な和文化の実践によって、我国「固有の美」を識ることができます。それは、日本の精神性の起源を辿ることなのです。それが自分の「根っこ」となり、「日本人としての自分」という主体性を確立することになります。

 伝統文化が自分の中に在るか、否かということの真価は、海外に出た時に発揮されることになります。それは、諸外国の様々な文化に対する判断基準を持つことであり、互いの文化を大切にする心を育てることにもなるのです。

 体の違いを無視して、徒に海外の文化を模倣し、教育の場で強制することが、どれほど日本人としての伝統的な精神を歪めてしまったかは、戦前の軍国主義教育による「直立不動」の姿勢により明らかです。今でもその名残りで、良い姿勢というと胸を張ってしまう人がいますが、この姿勢は思考を停止させてしまうものです。

 これにより軍部が見通しのない戦争に突入したと言ってもよく、冷静な判断が出来なくなったのが、太平洋戦争(1941(昭和16)年~)前の軍人でした。

soryu.hateblo.jp

「直立不動」は「上実下虚」を招く、(文武両道の)武士とは全く違う体の「型」でした。人(とりわけ日本人)は「上虚下実」でこそ、よく頭がはたらき、「真理」に達することが出来るのです(身体性による直観)。

体の違いから生まれる「文化の違い」を考え直し、今や明治以来の西洋化、戦後のアメリカ追従の舵を切り直すことが、今後の日本人にとっての最重要課題であると思います。

 かつて日本には、どの社会、どの道にも、人望のある「人物」がおり、若者はその人の「姿」と「佇まい」に尊敬と憧れを抱いたものでした。そのような「模倣の対象」となる人物に出会えることが、人間としての理想像を持てるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

 私にとっては、十九歳時に出会い、十年の間教えを受けた師野口晴哉が、理想の人間像となり、その跡を追うように整体指導の道を歩んできました。

 野口整体そのものは、長い伝統があるわけではありませんが、その基盤は『禅』に根ざしています。そして講義の中での、師の広範な古典の教養に触れることを通じて、日本の伝統文化や古典というものに目を啓かれていくことになりました。

 そして、「正坐」という「型」を身につけることは、すべての日本文化の基盤であり、それは、伝統的な生活文化の中に無意識化されて受け継がれてきていたのだということに気づきました。

 これは、所謂『肚』というものに繋がっているのです。