野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第四部 第二章 二3 西洋の特徴である二元的見方

 以前、第一部 第四章 一5で中村雄二郎の「共通感覚」(『哲学の現在』)の内容がありましたが、中村雄二郎には西田幾多郎の哲学についての著書もあります。第一部第四章でも「見るものと見られるもの」の分離について述べましたが、今回はそれともつながる内容です。

3 西洋の特徴である二元的見方― 親友・西田は禅の修行を通じて、自他一如の境地を「純粋経験」と名付け自身の哲学を樹立

 大拙氏は、科学が西洋において異常な進歩をなしたのは、西洋の考え方が自分と自分に対するものとを分け(自と他を分離し)てから出発する二元論に根ざしていることによるもので、自我に対するもの、それを客として理解する。主客の対立のない世界を西洋の人は考えられない、と説きました。

 西洋では、物が二つに分かれてからの世界に腰をすえてから(プラトンイデア論イデア(形相)とヒュレー(質料)」を基に)物事を考えることから、科学には相対するものが必要であり、主と客がないと知性は成り立たないのです(人間の感覚も成立しない)。

 氏は毎日新聞に掲載(1958年12月22日)された「東洋文化の根底にあるもの」で、英語の「divide and rule」(相手の勢力を分割し、その間に闘争を起こさしめ、弱まる所を打ち屈服させる)を挙げ、この語が、西洋思想や文化の特性を非常に適切に表現していると説き、次のように述べています(『東洋的な見方』Ⅰ 岩波書店)。

 

東洋文化の根柢にあるもの

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。

 鳥のように大空を駆けまわりたいと考える。さんざんの計画を立てた後、とうとう鳥以上の飛行能力を発揮するようになり、大西洋などは一日で往復するようになった。大空を征服したと、その成功を祝う。近ごろはまた月の世界までへも飛ぶことを工夫している。何年かの後には、それも可能になろう。月も征服せられる日があるに相違ない。この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。

 二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。個個特殊の具体的事物を一般化し、概念化し、抽象化する、これが長所である。

…東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の心理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うことになった。

 大拙氏の親友であった西田幾多郎氏は、自身の哲学「西田哲学」を樹立しました。それは自然と対立し、自然を人間が支配すべき対象と捉える西欧の思想に対し、禅の修行を通じて、自然また世界との一体感、つまり自と他の区別のない境地に至ったそれを「純粋経験」(註)と名付け、思想として表したのです。

(註)純粋経験

 西田氏は禅仏教の影響下に、主客未分、認識とその対象がまったく合一した意識状態を純粋経験と名づけ、それを自己の哲学の出発点に据えた。

 西洋的知とは、主体と対象を分離して考えるもので、例えば花や木や石は、あくまで主体である人間の対象にすぎないのです。このように、観察されるものを対象化するはたらき(テオーリア)が、古代ギリシア以来の「理性」というものです。

 しかし、東洋はこれに反し、花や木や石を対象化しない(見るものと見られるものが分かれない)ところで観るのです。

 東洋的智では、自分が花や木を見る時、その花や木も同時に自分を見る、本当の「観る」ということはこうして成立すると捉え、主体と対象が未分離なのです。花が「客体」として存在することを止め、見るものとしての「我」がなくなった時(無心となって観た時)、実在が感得されるのです。

 花が我を見、我が花を見る、「空」の瞬間とも言うべきこの時、いかなる意味での概念化もここにはありません。(ものが分かれる前から考えるので、主客の区別は無く、そこに対立的な構造は生まれにくい)

 こうした、何かを考えるときの「起点」に西洋と東洋の違いがあり、そうした東洋的智の究極といえるものが禅なのです。