第三部 第三賞 三6 大拙氏、米欧での十二年間の生活を通して「いかに西洋人に禅を伝えるか」を捉える
世界における「禅」の立処を踏まえて説く
一 2①で述べましたが、万国宗教会議の翌年、宗演師はケーラスの著作『仏陀の福音』を、鈴木大拙氏に訳させ日本で出版していました。
そして宗演師は、ケーラスが中国古典を英訳することになった際、彼に大拙氏を改めて紹介し、大拙氏が渡米して勉学の機会を得たいと望んでいると伝えました(こうして大拙氏を売り込んだ)。
実は、当時の大拙氏はアメリカではなく、インドに行って仏教の根本を学びたいと考えており、また経済的に困窮し、体も悪くしていたことで厭世的(人生に悲観し、生きているのがいやになっているさま)にもなっていたようです。しかし、先ずアメリカに行って、その後、機会があればセイロン(スリランカ)やチベットなどに行くことも「さして困難ならぬわざなるべし」と渡米を決心したのです。
こうして1897年3月、大拙氏(満26才)は、宗演師の「仏教東漸」の志に随い渡米したのです。
これが氏の四半世紀に及ぶ海外活動の始まりとなりました。
大拙氏は渡米して間もなく(一か月程後)、ケーラスの考える宗教(合理教・科学教)は宗教というより倫理主義と捉えるようになり、人間の知性に対する絶対的な信頼に疑問を感じるようになりました。そして、説明する立場としての近代合理主義は肯定するが、会得という宗教の本質には、科学は立ち入ることができないという考えを持つようになったのです(『鈴木大拙とは誰か』堀尾孟「眺望大拙像」)。
仏教の奥義は「理性で分かってしまうものではなく、体験的に会得するものである(仏教は体験主義、科学は理性主義)」ということだと思います。氏はアメリカ滞在中に書いた手紙の中で、仏教を西洋に伝える上での問題について、「西洋的な教育を受けただけでは十分ではない。最も肝心なのは、西洋人(の心)がいかにして(仏教を)受け入れる準備を整えるのかを理解することである」とも述べています。
このように「科学に適合した仏教(科学を普遍的真理とする立場)」と「理性の絶対視」というものからは離れた大拙氏ですが、その語学力に加えた、この時の氏の十二年間の生活(雑誌編集によって培われた英語力の習熟と西洋思想を知悉(ちしつ)したこと)は、後年、西洋の人々に禅を良く伝えるための基盤となったと思います。
岸本英夫氏(宗教学者 1903~1964年)は、戦後の欧米で禅がどのように関心を持たれているか、そして大拙氏が説く「禅」について、氏がアメリカで大拙氏の講演を聞いた経験に触れ、次のように述べています(鈴木大拙『禅とは何か』)。
…戦後の日本文化の流出は、その量が激増しただけではなく、その役割が変化した。現在の傾向は、欧米人の生活の中にはいって行きつつある。多少の差はあれ、欧米人の日々の生活文化を豊かにする役割をつとめている。
…禅ブームといわれる欧米における今日の禅の流行も、これと同じ性格を持っている。禅に対する興味は、広い層にわたる。…人生哲学に関心を持った人々が、人生問題の解決のための東洋的な一つの方法として、これに限りない興味を持ちはじめているのである。禅は、生きた文化的課題の中におかれている。…少なくとも、禅は、現代人の生活の中に受け入れられているということである。生きた現実の生活の中でその意味を持ちうるかどうかという点が、勝負処となっているのである。
…日本人は、概括的にいえば、思想には弱いようである。直観的経験論者である日本人は、抽象的な観念組織の構成には、伝統的に深い興味を示さなかった。
しかし、その直観性に深い根を下ろして神秘主義的傾向を強く持つ仏教は、日本で高い水準に発達した。その中でも、禅は、その直観的傾向を特に強調して、独自の宗教体系をつくり出した。
禅は、あらゆる象徴主義的な形而上観を排除して、直接に、端的に、直観的体験を把握しようとする。そうすることによって人間の問題を解決しようとするのである。
このような傾向の、磨きのかかった純粋な体系は、禅を除いては、世界文化史上、どこにも見当たらない。これは、ユニークな体系である。禅が、近年海外に流出したのは、それが水準の高い勝れた文化現象であるからに外ならない。
禅は、東洋文化という山脈の一つの高いピークである。この一つのピークを、東洋文化である山脈全体から切り離して考えることは容易ではない。禅を、東洋文化の基盤を把握することなしに理解することは、きわめて困難である。
日本から出向いた禅の学者の中には、遺憾ながら、この点をわきまえない人々が多い。したがって、講演の中で、突然に、「公案」を持ち出しても、「日日是好日」を説いても、欧米の人にとっては、まったく理解を超えた唐人の寝言的説明の悲劇に終わる。そうした悲劇が、あまりにも多く繰り返されてきた。
私は、アメリカで、ある機会に、鈴木大拙博士の講演を聴く大聴衆の中にいた。それは、いうまでもなく、禅の講演であった。ところが、鈴木博士の話は、「朝顔につるべとられて貰ひ水」という句の解釈からはじまった(第二章二 1に挙げた『禅と精神分析』の「よく見れば薺花咲く垣根かな」に始まる大拙氏の講義内容と同じ手法)。
そして、日本文化のあちらの問題に触れ、こちらの事象をとき、縦横に展開した。そして、私が、これは禅の講演ではなくて、日本文化の講演ではないかと疑いを持ちかけた頃、ようやく話の主題は、禅の問題にはいって行った。講演全体からみると、禅の話は、全体の五分の一くらいに過ぎなかったであろう。
しかし、その講演は、千人以上の聴衆に多大の感銘を与えた。そして帰途、聴衆の私語に耳を傾けてみると、アメリカの人たちは、みな、その講演は、首尾一貫、禅の講演であったとして理解していることを知った。
それは、鈴木博士が、いかに、禅の東洋文化の中における位置を把握し、東西の文化的なギャップの大きさを心得ておられるかを、物語るものである。私は、ひそかに敬服した次第であった。
第三部完