第三部 第三章 一4 大拙氏の説く「禅」とは― 科学・主知主義と禅・体験主義
私事になりますが、昔々20代半ばだったころ、私は参禅のために来日した、頭を丸めて黒い袈裟を着たベルギー人の若い男性と話をしたことがあります。彼は「僕はカトリック教徒で、仏教のことは哲学だと思っている」と言いました。
彼の名前はフィリップ(Philip)、妹はソフィー(Sophie)、二人合わせてフィロソフィー(Philosophy)なんだ!と言ったことも印象的でしたが、それ以上に仏教が哲学だと言ったのには驚きました。
その後鈴木大拙の活動と思想を知り、フィリップのような捉え方というのは、鈴木大拙が西洋に仏教を伝える上で必要な過程と考えていたことだったのだと分かりました。今や日本人よりも西洋の方が真剣に仏教を生きる道筋として活用しているかもしれません。それでは今回の内容に入ります。
4 大拙氏の説く「禅」とは― 科学・主知主義と禅・体験主義
大拙氏帰国後の研究と著述(第二章一参照)、海外での講演活動により、英語を通して禅の本質を西洋人に理解せしめたことは、英語力に卓越していたのみならず、優れた「人格と思想」の持ち主であったからです。
大拙氏はアメリカでの生活を通じ、人間の知性(理性)に対する絶対的な信頼に疑問を感じるようになりました。そして、説明する立場としての近代合理主義は肯定するが、会得という宗教(仏教・禅)の本質には、科学は立ち入ることができない(理性では会得はできない=理性の限界)という考えを持つようになったのです(『鈴木大拙とは誰か』堀尾孟「眺望大拙像」)。
氏は、師釈宗演が再渡米(1905年6月)する計画が浮上した際に、アメリカ人に説法をする時の注意として「西洋人は文字に拘泥するくせ」、すなわち「主観的のことまでをも客観的に解せんとするくせ」がある(第二章二 5・6参照)、と手紙で師に意見を述べています。
(アメリカは近代文明・科学(客観性重視・理性至上主義)によって造られた国であり、滞米生活八年を経た大拙氏は、アメリカ(西洋)人に対する理解が進む)
「理に偏して信を忘るゝ」合理主義の立場を批判し、意識を超えた意識によって直覚(体得)するしかない真理を、意識で理解できるよう合理的に説明し尽くすことはできないが、その真理を表現するには意識化が必要だ(「文字も亦(また)道」)というのが大拙氏の考えでした。
(金井もこの考え方を持っていることで、このような本作りとなった)
堀尾孟氏(宗教学者)は大拙氏の説く「禅」について、1906年に出版された“The Zen Sect of Buddhism”(邦訳『禅宗』)を引き、次のように述べています(眺望大拙像―大拙の基本問題とその究明の立場)。
一、西洋(アメリカ)との出会い
…禅宗は「仏教のギリギリの真髄を創始者仏陀から直接承け継ぐのを眼目とする」点で、「仏教の諸宗の中で一頭地を抜いて独特なものがある」と大拙は主張する。
「仏陀から直接承け継ぐ」ということは、「仏教古来の教義などといふものを一切捨て去」(っ)て、各人各個が「一切のものを生かしているところの真の存在又は生命と、ぴったり一枚になる」ことであり、「その生命が自分の中に脈脈と脈搏ってゐることを親しく感ずる」ことであり、この「宇宙の理と一枚」になった「各人各個の内部自覚」、「霊性の自覚」こそが「正覚」すなわち「仏陀の心である。
即ちそれは仏陀自身の正覚の主体性である」と説いている。従って、「禅宗」とは「事実であって、言葉ではない」、まして「経典でもなく、書物でもない」のであって、「禅匠の望むものは、「生きるもの」、「個体性」であり、「霊性の息吹き」である」と述べている。
こうして、宗教の宗教たることを問い直し、科学の科学たることを問い直すことで、近代世界を生きている自らの生命の本質を問い直すという大拙氏の「禅学」が確立していったのです。
そして氏は、アメリカ滞在中に書いた手紙の中で、仏教を西洋に伝える上で大切なこととして、「西洋的な教育を受けただけでは十分ではない。最も肝心なのは、西洋人(の心)がいかにして(仏教を)受け入れる準備を整えるのかを理解することである」と、述べています(「近代グローバル仏教への日本の貢献──世界宗教会議再考」(ジュディス・M・スノドグラス))。
大拙氏は禅の修行者となり、そして禅の研究者・思想家となりましたが、その間はもちろん、その後も一人の禅の修行者であり続けました。氏は、禅体験の伴わない禅の研究は禅と無縁であると常に考え、生涯(1966年7月12日 満95歳没)、坐禅を欠かすことはなかったのです。