②明治初期の廃仏毀釈運動と日本仏教の近代化
明治新政府は「王政復古(註)」「祭政一致(註)」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、神仏分離令を発布(神社と寺院を分離し、神社に奉仕していた僧侶には還俗(げんぞく)を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁止)しました。これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおきたのです。
(註)王政復古
武家政治が廃され、もとの君主政体に復すること。日本では1868年1月、倒幕派による王政復古の大号令により政権が朝廷に戻ったことをいう。
「祭」は祭祀,「政」は政治で,宗教的権威に基づき、司祭者が政治権力を保持する神政政治をさす。幕府から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対し、地方の神官や国学者が扇動し、寺檀制度のもとで寺院に反感を持った民衆が廃仏毀釈運動に加わり、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われたのです(廃仏毀釈運動は神仏分離令発布(1868年4月)から3年後の1871年頃には終息した)。
この時期、江戸時代に地域の中心として機能していた寺がその役割を奪われ、仏教衰退の危機にみまわれました。
さらにこの時期、他のアジア諸国においても、西欧帝国主義の植民地政策からキリスト教の宣教が強硬に行われ、在来の仏教が迫害されており、インド、スリランカ、ビルマなどを訪問した日本人仏教者たちは、「汎アジア」的な仏教の危機を感じていました。
このような状況を打開するため、キリスト教に対抗し得る新しい仏教構築の必要性と、国内では、江戸時代の旧弊を脱するため、万国宗教会議に参加した日本仏教界の代表たちは、仏教が近代的に生まれ変わる必要があることを痛感していたのです。
このように、徳川幕府時代の特権を寺院が喪失したことによってもたらされた仏教の危機は、仏教界の変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついたのです。
釈宗演師が掲げた「仏教東漸」には、1で述べた米欧でのキリスト教の衰退という「西(米と欧州)」と、このような「東(日本とアジア)」という、それぞれの事情があったのです。