野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 三5 仏教東漸と、初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた釈宗演師

②宗演師らの説いた近代仏教としての大乗仏教を科学との統一が可能と考えたケーラス

 ここでは「近代グローバル仏教への日本の貢献 ── 世界宗教会議再考」(ジュディス・M・スノドグラス/堀 雅彦 訳)を基に、日本人代表団が説いた近代仏教を、ケーラスがどのように捉えたかについて述べて行きます。

「すべての事物は心の本質から生まれてくる」。「それゆえ、宇宙の万物は心そのものである」。「万物は心に他ならない」「われわれの知る世界は、心の本質において作用している因果法則の帰結である」。

ケーラスの心を捉えたのは、こうした日本仏教界代表たちが語った心の顕現としての世界という概念と、涅槃の積極的解釈であったと言われます。ケーラスは感覚一元論(註)の立場に立ち、自我の消滅(無)と、自然との結合を神とする宗教を模索していました。

(註)感覚一元論 我々の観念は視覚や触覚などを通じて受け取るもろもろの感覚印象の連合によって構成され、存在するのは感覚のみであるとする。たとえば、ロウソクの炎が赤いのを見るとき、それは炎が赤いのでも、網膜が赤さを感じるのでもない。単に、「赤さ」という要素が直接に現前しているだけである。自我もまた、気分、感情、記憶などの諸要素が関連しあって形作られた複合体であって、根源的なものではないと考える。

 この会議で、日本人参加者が「涅槃」について、積極的で、この世的で、社会参加的な解釈を提供したのはとりわけ重要なことでした。パーリ語の仏典における涅槃は、英語では「消滅」と訳されるせいもあって、ケーラスは1890年時点では、「涅槃の観念には極めて危険な特質があると言わざるをえない。……東洋の仏教は、その信仰を抱いた人種に無関心と退行という最も致命的な効果をもたらしてきたのである」と述べていました。

 しかし、日本仏教界代表たちが説いた「涅槃」は消滅ではなく、「現実離れ」したものではありませんでした(涅槃は心の迷いがなくなった安らぎの境地。また、悟りと同じ意で煩悩のない状態)。

 スノドグラス氏は、東方仏教(近代的な大乗仏教)について次のように述べています。

東方仏教と社会参加

パーリ仏典における涅槃は「消滅」に等しいとしても、大乗の概念はそれとは異なる。東方仏教では、涅槃は消滅ではなく、禁欲的な現世離脱を含意するような情念の消滅ですらない。

「現実離れ」という非難もまた、当たらなかったのである。「涅槃への到達」は、東方仏教では「心を支配し……この世的な関わりの中にあってさえ……真理にとどまること」を意味していた。

…東方仏教の涅槃はニヒリズム的な概念ではない。個人の霊的な達成を追求するためにこの世的な事柄の放棄を要求するものでも決してない。涅槃を目指す者に求められるのはむしろ、自分たち自身、そして自分たちの獲得した知識を社会全体のための無私の仕事に捧げることであり、「人間性のための積極的な骨折り仕事に従事すること」である。

 ケーラス(進歩的な西洋人)の支持する宗教とは、積極的で、人生を肯定し、自己への信頼に基礎を置くものであり、ケーラスはそのような宗教のモデルをそこに見出したのです。

 こうして釈宗演師の演説は、ポール・ケーラスに、科学に適合する新しい普遍宗教としての「近代仏教」の可能性を印象付け、仏教啓蒙運動を開始させるという結果をもたらしたのです。

 近代仏教はケーラスの出版活動を通じて、西洋の仏教研究者以外の人々にも広く知られ理解されるところとなり、現在のように仏教が西洋に広まる窓口となりました(この直後、大拙渡米の機運)。

 こうして、日本人代表者たちが語った大乗仏教は、世界に普及する近代仏教の原型となり、後に、大拙氏はこれを「東方仏教」と称するようになりました(スリランカなどの南方アジアに広まった上座部仏教は南方仏教ともいう。1921年5月、大拙氏による『イースタン・ブッディスト(東方仏教徒)』創刊(一 2③で紹介))。

(補足)ケーラスの思想

 ケーラスは仏教とキリスト教の類似性、仏陀とイエスの生涯の類似を明らかにし、人間的な我を消滅させることで、自己の内部と自己の外部、主観的な精神と客観的な物質の差異も消滅し、主客未分の一元的な領野がひらかれると説いた。彼はヨーロッパの新たな哲学が目指しているのはこの一元的な領域であると主張し、東洋思想の伝統こそが現代の一元論哲学に直結すると考えていた。オープン・コート社刊行の『モニスト』は「一元論者」の意で、哲学のみならず、物理学、心理学、生理学などあらゆる分野における一元論的思想を掲載していた。