野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 三3 釈宗演師、スリランカで原始仏教に学び近代化の手掛かりを掴む②

 3②の内容は釈宗演が慶應義塾卒業後、スリランカやタイの上座部仏教に触れることで仏教の近代化を目指した経緯についてです。

 鈴木大拙は釈宗演について次のように述べています。(『鈴木大拙全集第30巻』岩波書店

宗演老師はなかなかの偉い人であったな。老師に参禅した者は大変な数で、坊さんばかりでなく居士(在家信者)が沢山いたわけだ。老師は禅の修行が済むと、慶應義塾に入って福沢諭吉先生のもとで勉強し、それからセイロンにまで留学して勉強修行をせられた。禅宗の坊さんとしては全く破天荒な行動といわなくてはならん。

 それでは今回の内容に入ります。

福沢諭吉山岡鉄舟の薫陶を受け、セイロン(スリランカ)に渡る

 宗演師が印可を得た頃、洪川師に参禅していた山岡鉄舟(1836年~1888年)は彼を見、「そんな面構えではだめだ。あまりにも鋭い。インドにでも行って案山子みたいになって馬鹿になって来い」と言ったそうです。

 福沢の影響で欧米に対する関心をより強く持つようになり、還俗をも考えるようになった宗演師に、福沢は次のように言ったとのことです(『仏教説話体系 三四 名僧物語(三)』)。

…「おまえさんはさらに道を究めようと思って慶応に入ったのだろう。いったんこうと決めた志を変えてはいけないよ。けんかをするには相手を知ることもたいせつだ。しかし、自分を知ることはそれ以上にたいせつなんだ。

セイロンへ行くがいい。インド本土にはすでに仏教はなくなっていると聞く。チベットやタイやビルマにも仏教はあるだろうが、セイロンとインド本土は目と鼻の先だ。きっと仏教の源流が残っているぞ。

今はイギリスの植民地だが、明治6年、8年がかりの論争の末にセイロン僧がついにイギリス人の宣教師を論破したそうだ。その討論会の英訳文がアメリカまで届いた。それを読んで感銘したあるアメリカの軍人は、セイロンに渡って正式に仏教徒になったという。アメリカ人の心をとらえたというセイロン仏教を知るのもおもしろいではないか」

 宗演師はこうした福沢諭吉の勧めや山岡鉄舟の資助により、慶應義塾別科を卒業後、1887(明治20)年3月、仏教の源流を学ぶためセイロン(スリランカ)に渡り、そこで二年余り上座部仏教の僧侶としての体験を積みました。

 宗演師が出会った当時の、スリランカ仏教事情が次のように述べられています(『仏教説話体系 三四 名僧物語(三)傑僧列伝』)。

…檀家の制度などもなく、ひとりの僧から見れば国中の信者が皆檀家であり、信者から見ればどの僧も皆同じ和尚であった。本尊はどこの寺も釈迦牟尼仏だけであった。また寺に墓地はなく、死者を寺に葬るという風習もなかった。信者はひたすら僧に供養をすることで功徳を積むのである。

 宗演は日本の寺院の現状を思ってことばがなかった。確かにこの島には釈迦在世のころそのままの僧の生活があった。

 日本の仏教は本尊が多様化し、江戸時代の寺檀制度(2 ①)により葬式仏教と化し、スリランカ原始仏教は宗演師が近代仏教を模索する上でモデルとなったようです(温故知新)。

 釈宗演師はスリランカでの修行(1887年~)を経験し、帰途はタイを経て上海に入り、南中国の禅の古刹(歴史ある古い寺)を訪ね、1889年(明治22)10月に帰国します。帰国後は、横浜の宝林寺の住職となりました。

 横浜には、蘆津實全(天台宗)・土宜法竜(真言宗)・島地黙雷(浄土宗)という宗派の枠を超えた自由仏教人が集まり、仏教各宗協会という団体を結成しており、宗演師もこれに参加しました。

 こうして彼らは、各宗派の違いを超え「日本仏教とは何か」を考えることで原点回帰し、仏教衰退の危機を乗り越えようとしました。これが、万国宗教会議での演説内容へとつながったのです。

 1892年師洪川遷化の後、円覚寺派管長となった宗演師は万国宗教会議に際し、仏教各宗協会の同志に「仏教東漸」の言葉を用い、自分らの手で仏教をアメリカへ伝える意欲を語り、蘆津實全師がこれに応えました。

 宗演師は、自由仏教人として集っていた蘆津實全師や土宜法竜師らに「仏教東漸ということばをご存じでしょう。…われわれの手で、それをさらに東のアメリカに伝えるのです」と呼びかけたのです。

 宗演師は四人の日本仏教界代表・団長として万国宗教会議に出席し、そこで『仏教伝通概論(仏教の要旨並びに因果法)』と題した演説を行いました(この演説原稿を英語に翻訳したのが弟子の鈴木大拙氏)。