第三部 第三章 三4 「心」を因とする因果法則として近代仏教を説く― 万国宗教会議における釈宗演師の演説
ここでは、「1893年シカゴ万国宗教会議における日本仏教代表 釈宗演の演説 ―「近代仏教」伝播の観点から」(那須理香『日本語・日本学研究vol.5』東京外語大学国際日本研究センター 2015年)と、『森のバロック』(中沢新一 せりか書房 1992年)を基に、釈宗演師の演説内容について述べて行きます。
シカゴ万国宗教会議は世界の四十一の宗教からおよそ二百十名の代表者が参加し、数千人の聴衆の前でその義を説くものでした。
釈宗演師の演説(委員長バローズの代読)の内容は「仏教の要旨並びに因果法」というものです(鈴木大拙氏の英訳では ‘The Law of Cause and Effect, as Taught by Buddha’ となっている)。
この演説は「普遍的真理に適った宗教としての大乗仏教」を伝えることを目的としていました。そこで、「因果法(註)」=近代科学の基礎となる「原因と結果の法則」からなる合理主義的観点と、仏教の教えが仏陀一人によって開かれたものと捉える「釈迦牟尼の中心化」を強調し、大乗も上座部仏教もひとつとなることができるという内容に集約して原稿がまとめられたのです。
(註)因果法(The Law of Cause and Effect)
釈宗演師はこの世界が、心の二つの元因「性・情」によって出来上がると説いた。性とは「本覚の自己(悟りの智慧・本来の自己・仏性)であり、情は「不覚の一念・無明の心、妄想・五情の所欲(感覚を生じる、眼・耳・鼻・舌・身の五根のこと。また、それからおこる情感)」のことで、情から自他や善悪、また世界の万物が生じるとした。
そして世界のありようは情のありようによって決まるので、「情(感覚・感情)」を清め、性を自覚する心の行を積んでいくことで、漸次(輪廻転生を含め)心の進化を目的とするのが仏道であると説いた。これは大乗・上座部、すべての宗派を超えた仏教の普遍的な説である。
宗演師の説く因果法の因とは、この二つの「心」の要素を指すが、近代科学では「心」の一切が除外されている。
〈参考文献〉『万国宗教大会一覧』(釈 宗演 鴻盟社 1893(明治26)年11月 国会図書館デジタルコレクション)
人間界の営みも自然界の事象と等しく、原因と結果の連鎖によって規定された「因果法」という自然法則によってすべてが支配されている、という説き方は、近代科学の「原因と結果の法則が自然を支配する」という基本概念に合致するものです。(因果法に基づくという共通点がある)またダーウィンの進化論(註)とも共通し、西洋的な世界観(キリスト教は神からすべてが生じるという因果論に立つ)に合致しています。
(註)ダーウィンの進化論 では、進化とは、世代を重ねて引き継がれていく個体の性質が変化し、種が変化すること。生物は環境において有利な形質を持った(これが原因)個体が生き残る(環境に不利なものは淘汰される)ことで、その形質を持った個体が増える(これが「種が変化する」=進化という結果)。このことが「ダーウィンの進化論が因果論に基づく」の意。
当時の欧米では、仏教はインテリ層には強い関心がもたれるようになっていましたが、その中心は上座部仏教であり、仏陀という一人の人間が説いた「哲学」として理解されていました。
また、大乗仏教の経典は直接仏陀が説いた原典ではないという理由で、仏陀の思想とはみなされず、大乗仏教に対する関心は、主にチベット密教の高度な瞑想体系や秘儀に対するオカルト的関心に偏っていたのです。
(特にヨーロッパにおいて、カトリックでは高度な神学体系が確立されたが、瞑想の体系はごく少ないため、強い関心が持たれていた)
その上、まだ一般の人々には、仏教そのものがほとんど知られていませんでした。
そこで、仏教の知識のない聴衆でも理解可能な内容にするというねらいから、因果法という「法則」と、釈迦牟尼という一人の人間が説いたという二つを前面に打ち出したのです。
このように、聴衆の文化的背景を考慮し、それに合わせた提示の仕方をとる必要があったため、鈴木大拙氏は英訳の際、西洋の聴衆が理解できるよう、説明的な言葉を多用する(ことに因果法について)という配慮によって原稿を再編集したということです。
宗演師は自身の信じる宗教の優位性を主張した他の参加者とは違い、それぞれの宗教の共存と、平和を実現する普遍的真理を訴えました。
当時の時点では、アメリカ社会に広く仏教が受け入れられたというわけには行かなかったようですが、日本の仏教界代表者は、宗派を超えた「近代仏教」としての日本の大乗仏教を初めて正式に披露しました。これがアメリカ大陸における仏教東漸の第一声となりました。