野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第三部 第三章 二1 十九世紀末のシカゴ万国宗教会議と日本仏教界参加

 ブログ掲載が遅くなり申し訳ありません。今回から三の本文に入ります。内容は釈宗演が参加し、後に鈴木大拙の渡米の道を啓いたた万国宗教会議の解説です。

 19世紀末のアメリカは『大草原の小さな家』シリーズなどで知られる、「プロテスタントの白人家族による西部開拓」というアメリカの創生神話的な時代が終わり、急速に変化する社会する中、これまでのキリスト教を基盤とする価値観から、科学と合理主義を基盤とする価値観へと変貌していきました。

 この万国宗教会議は、キリスト教(特にプロテスタント)の優位性を暗に示すのが目的だったとも言われますが、当時の東洋宗教の代表者たちが英語で論理的に自身の思想を述べたことはアメリカで驚きをもって受け取られたようです。

 

1 十九世紀末のシカゴ万国宗教会議と日本仏教界参加― キリスト教の威信回復のため開催された万国宗教会議

 1893(明治26)年5月、コロンブスアメリカ大陸発見四百周年を記念し、シカゴで第五回万国博覧会が開催されました。そして、これに併設する会議の一つとして、世界中の歴史的宗教の代表者を一堂に会合せしめることを目的に「万国宗教会議」が開かれました(9月11日~27日)。

 会場となったレイク・フロント公園(ミシガン湖畔)のシカゴ美術館には、世界十六宗の代表者たち二百余名が世界史上初めて一堂に会し、そこに集う五千名以上の、聴衆の面前の壇上に勢ぞろいしたのです。

 博覧会は「科学技術の発展と工業への応用」を中心テーマとし、近代化をとげたアメリカの経済発展(シカゴは当時、アメリカ中で最も経済成長を続けていた都市)を世界に示す場として、物質的豊かさを誇るものでしたが、それと同時に経済優先、物質主義からくる人間性の喪失という側面についても問題提起する場として、「物ではなくて人間、物質ではなくて心」という開催モットーを掲げていました。

 19世紀末、西部開拓時代が終わったアメリカでは、都市化と産業化が急速に進み、その工業力は世界一となりました。同時に、南欧・東欧からの移民が増加し、キリスト教における宗派の違いによる偏見や摩擦が起こるようになっていました。また、一代で億万長者に成り上がる者がいる一方で、極度の貧困層が増大するという弱肉強食の世界が顕現していました。

 西部開拓時代にはキリスト教(白人のプロテスタント)の価値観と生活が一致していたのですが、その後、科学技術の進歩により貨幣経済が浸透し、神への信仰より現世的な欲望を満たすことを優先する(消費社会における物品購入を精神救済と捉える)ようになって、道徳・社会倫理の規範としてのキリスト教の役割は、その機能を停止するという状況に陥っていました。

 また、米欧ではダーウィンの進化論に象徴される近代科学主義も、キリスト教の弱体化を招き、敬虔な信者たちを動揺させ、科学の信奉者によるキリスト教批判を促進する結果をもたらしました。

(進化論は、キリスト教の信仰の礎となってきた「神による天地創造」を否定した)

 こうして、キリスト教は絶対的規範としての地位を失い、国民は精神の拠りどころとしての宗教を失う不安にさらされていたのです。こうした社会背景の下、アメリカのキリスト教界は、シカゴ万博をキリスト教の威信回復のための絶好の機会として万国宗教会議の開催を推進したのです。

 万国宗教会議には、日本の仏教界から天台宗・蘆津實全、真言宗・土宜法竜、臨済宗・釈宗演、浄土真宗・八淵蟠竜の四人の代表が参加しました。

(日本仏教界代表の通訳として野村洋三を伴う)

 日本の仏教界では、万国宗教会議がキリスト教の拡張を図る野心を反映したものだとして不参加を主張する意見もありましたが、釈宗演師と蘆津實全師は、会議参加が日本仏教を西欧世界に広める(=「近代仏教」を世界に提示する)絶好の機会と考え、積極的な参加を呼び掛けました。