野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

禅文化としての野口整体Ⅰ 活元運動 第一章 三1  近代科学に基づく衛生と体育を相対化し野口整体の思想を理解する

三 修養である活元運動のための教養

 今日から三に入ります。ここでは引用されていませんが、今回のテキストとなっている「本来の体育」で、野口晴哉は戦後、活元運動を広めるにあたって、最初はとにかく活元運動をする人を増やすことだけを考えていたがそれは間違っていた、人数ではなく理念を理解して活元運動をすることを伝えていくことが大切だと気づいたと述べています。

 野口晴哉の意味する体育とは、健康に生きる上で必要な弾力ある身心を育てることで、生活においては要求と行動をひとつにしていくことを中心としています。そして晩年はことに、病症と考えられている多くの症状は生体防御反応であることを「生きるための教養」として教育する必要があると考えていました。

 活元運動を実践していく上で大切な基礎となる内容であると同時に、普遍的な健康についての問題提起が含まれているため、多くの方に読んでいただきたいと思います。

1 思想を通じて身に付ける活元運動ー近代科学に基づく衛生と体育を相対化し野口整体の思想を理解する

 ここからは、師野口晴哉の「活元(運動)指導の会」での文章を挙げ、「整体」の思想(註)が禅を基盤としていることを伝えたいと思います。

 整体に「思想がある」とは、師により哲学的思考がなされたことを意味し、野口整体は近代化(西洋化)されたものだということです(しかし、その内容は脱近代というべきもの)。

(註)思想

哲学の世界で、考えることによって得られた体系的にまとまっている意識の内容。生き方、社会的行動などに一貫して流れている、基本的な物の見方、考え方。哲学は古代ギリシアに発祥したもので、日本では近代以前・江戸時代までなく、従って思想というものはなかった。哲学という言葉は明治初期、西 周によって作られた。

 活元運動は、以前に比べると関心を持つ人が増えていますが、意識しないで個人個人がひとりでに動くという不思議さ(スポーツ的運動(随意運動)とは異なる奇妙な様)にのみ興味を持つ人も多いように思われます。

 このような関心の持ち方だけでは、「活元運動が出た・出ない」ということに終始したり、そうでなくとも、「すっきりさせる(症状や不快感を無くす)」ことだけに関心が行って、なぜ活元運動を行うのかという理念が伝わらないのです。

「整体とは何か」という、根本的な考え方が理解されないまま活元運動を行うことの問題点があり、師はとりわけ晩年、理念「整体とは何か」という思想が理解されることの大切さを訴えていました。

 師は、活元指導の会(1969年5月)で、整体の思想を「本来の体育」と題し、「まずそういう我々の理念を理解してもらわなければならないのです。」と強調し、次のように続けています(『月刊全生』2000年9月号)。

本来の体育2

…活元運動をやったら吐き気が起こって吐いたとかいうのは活元運動の効果なのです。余分に食べている人が活元運動をやって吐いたなんていうのは何も不思議なことではない。体は余分な分だけ吐いてしまうのです。そうでなくても中に溜まっていれば下痢するのです。

そうしたらさっぱりするはずなのに、そういう変動を病気だと思い込んで、活元運動をやったら病気になったというように考えてしまう。だから何か不思議なものだというそれに魅了されてやっている人が多くて、本来の体育の理念(金井・「体を育てる」とは、という根本的な考え方)に基づいて、どういう体が敏感、或いは正常なのかということを理解しないでやっている人が意外に多い。

 このような、師が説く「体の正常性」に対する理解が肝要なのです。それは、西洋医療では何らかの症状があることを異常(病気)と捉え、これがなければ正常と考えるもので、こうした機械論(静)的生命観が蔓延しているために、師は右のように説いているのです。

「整体」の思想とは「体の自然とは何か」を考えるもので、体の自然に反する(対立する)、あるいは自然を損なう考え方というものがあるわけです。師は次のように続けています。

衛生(註)という面から言えば、いろいろに環境を改革するとか、病気をなくすとか、病気に対応する薬を作るとかいうようなことばかり考える。しかしその前に敏感な体になるということの方がもっと大事なことなのではないだろうか。

そう考えてまいりますと、今までの衛生のパターンというのはとても妙でした。健康といえばいくら働いても疲れない、愉快にいつまでも働けることなのに、健康になる方法はなるべく働かないで休んでいることだった。

…だから、今までのパターンをどこかで新しいものに変えなくてはならない。健康になるための道筋の中心にあるのは敏感な体、異常に対して敏感に感じる体、それで異常をすぐに調節する働きを起こす体なのです。

(註)衛生

  西洋衛生学に基づく「生」を「衛(まも)る」という衛生は、外界への対策を意味するもの。今日では、単に清潔・殺菌(除菌)のみを意味する場合が多い。明治以来の近代化において、健康観が江戸時代以来の養生論から衛生論へと移った。これは、明治から昭和にかけての伝染病の蔓延による面が大きい。

 このように師の思想は、「環境を改革する」「病気に対応する薬を作る」という外界を開拓する考え方でなく、「敏感な体になる」という、内界を開墾することなのです。これは「科学の知」(衛生)に対する「禅の智」(修養・養生)というものであり、一言にして言えば、身体感覚を高度ならしむることです。

 思想を正しく理解することを通じて活元運動を訓練することで、「意識と体の自然(無意識)が一体となって生活できる」ことを目的とするのが野口整体です。