野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

仏教東漸―後科学の禅・野口整体 9

仏教東漸―極東の日本から、さらに東のアメリカへ 

 釈宗演師から鈴木大拙へと引き継がれた「仏教東漸」の志とその経緯については、webなどでも様々な資料を読むことができ、釈宗演師のところで再度述べる予定ですのでここでは割愛します。

 一八九七年、大拙氏(26歳)は、釈宗演師の勧めによりアメリカに行くことになりました。そしてケーラス運営の出版社・オープン・コート社で、老子『道徳経』など東洋哲学関係の書籍出版の手伝いをすることになったのです。

しかし渡米後まもなく、大拙氏は、アメリカでの生活を通じ、ケーラスらの考えている仏教は「宗教ではなく倫理主義」と思うようになりました。

 大拙氏は、釈宗演師が再渡米する計画が浮上した際(1905年)、手紙でアメリカ人に説法をする時の注意点を意見しています。それは「西人は文字に拘泥するくせ」、すなわち「主観的のことまでをも客観的に解せんとするくせ」がある・・・ということでした。

 これについて金井先生は、

アメリカは近代文明・科学(客観性重視・理性至上主義)によって造られた国であり、滞米生活八年を経た大拙氏は、アメリカ(西洋)人に対する理解が進む。

 と述べています。

 また、当時のアメリカは、西部開拓時代が終わり、都市化と工業化が急速に進んでおり、一代で億万長者に成り上がる者がいる一方で、極度の貧困層が増大するという、むき出しの資本主義社会でした。欧米社会は、自国内でも階級や宗派の違いで対立し、皆が競争に追われているというのが実態だったのです。

 1902年、宗演師の坐禅指導を求め、アレキサンダーラッセル夫人(サンフランシスコ在住)が来日しました。彼女は鎌倉円覚寺での参禅の後、キリスト教から仏教に改宗し禅者となるという本格的な取り組みを行いました。

 釈宗演師は来日した当時の人々について次のように述べています。 

 利益を得るとか、幸福を得るということが人々の目的であるはずなのに、その目的のために、かえって目的に反し、常に追い駆けられ、苦しめられて、闇から闇に飛び込んでしまうというような状態ではないだろうかと思う。

(『明治の国際派禅僧、アメリカに行く』釈宗演・鈴木貞太郎)

  近代とともに宗教が学問を支配する時代が終わり、キリスト教国には仏教が入り、仏教国にはキリスト教が入り、研究する時代になりました。そして西洋では、心の安らぎを得るという目的に適った、キリスト教以上の宗教が求められるようになったのです。ラッセル婦人一行もこのように考え、坐禅に巡り合った人々でした。

 宗演師は同著で次のように続けています。 

四、坐禅に限る

ラッセルは高等教育を受けていて、中以上の財産を有する、日本で言えば豪商とでも言われるような、別に不足はない身分であった。不足のない身分ではあったが、競争の中に立っていて、この中で惑乱されない心の安寧を得なければならないと思ったに違いない。ラッセルだけではない。ほかの人もそうであった。

…仏様の教え方は、ただ神や仏をつかまえてきて、「わたしを幸福にして下さい」、「私の罪を消し去って下さい」と、迫るように責めるように祈れというのではない。清らかな心の状態を維持していなさい、換言すれば心の統一を保っていなさいということである。

釈迦自身がその手本を示した。釈迦は…仏や神に向かってある種の祈祷をしたことは一遍もないと伝記に書かれている。

どんなことが心の清らかな状態であるのか、心の静かな状態であるのかを探求し、換言すれば、六年間坐禅しておられた。そして暁の明星を見て、それが真に清らかな状態である、わが心はあたかも明星のごとく清らかな状態である、また心そのものが清浄の極まった状態であるということを自覚されたのである。 

 一九〇五年六月、宗演師は、ラッセル婦人の招きに応じてに再度渡米し、滞米中の鈴木大拙氏を伴いアメリカ各地で講演し接化(禅指導)を行い、日本人の僧として、初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師となりました。

 そして大拙氏は、「東洋的思想または東洋的感情とでも言うべきものを、欧米各国民の間に宣布する」という大望を抱くようになったのです。それは、日本が必死で追いつこうとしている欧米の人々が、心の飢えに苦しんでいると知ったことが大きな要因であったと思います。

参考文献

「近代グローバル仏教への日本の貢献──世界宗教会議再考」(ジュディス・M・スノドグラス/堀 雅彦訳(論文)

鈴木大拙とは誰か』堀尾孟「眺望大拙像」

鈴木大拙と禅思想―後科学の禅・野口整体 8

自分のことから始まる禅思想

  前回で第二章が終わり、今日から第三部第三章 世界の大拙と近代仏教の先駆けとなった師・釈宗演の仏教東漸 が始まります。実は私が「やり過ぎ?」と思っていた所です・・・。この章は難しい!

 なぜなら、内容のほとんどは、鈴木大拙氏と、その師釈宗演師の生涯と思想だからです。何のブログか分からなくなってしまうのでは?という怖れも正直ありますが、先生が伝えたかったことを掴みつつ進めていこうと思います。 

 鈴木大拙は1870年(明治3年)、石川県金沢市に生まれました。

 鈴木家は加賀藩藩医を務めた歴史があり、代々町医者をしていました。父は蘭方医(オランダ医学)の医師で、藩の医学館の教師であり、維新前から福沢諭吉の著書を読む先進的な人で、同時に儒家でもありました。

 大拙は居士号で、本名は貞太郎で、四男の末っ子です。儒家であった父は、四人の息子の名前を易経の「元亨利貞」という有名な言葉から取りました。

 これは植物に喩えると「元は芽生え、亨はその成長、利は実になろうとする時、貞は結実」という、天の法則と気の流れを意味する言葉です(本田濟『易』朝日新聞社)。

 しかし、明治維新と近代化は、鈴木家にとって大打撃となりました。藩の医学館は閉鎖され父は職を失って54才で亡くなり、その翌年、今度は利太郎(貞太郎のすぐ上の兄)も亡くなりました。その上、西南戦争で銀行が倒産した折、遺産を失ってしまったのです。

 その渦中で母の増(ます)は目を病み、治癒を願って滝行をするなど、信心を心の支えとするようになって行ったそうです。

もともと金沢は文化水準が高く信心深い土地ですが、大拙氏は「自然にこの母の感化を受けたことで、宗教方面に関心を持つことになった」と述べています。

 同時に鈴木家では、父はあこがれの存在だったようで、父良準は自分で「衛生読本」と「修身読本」という本を書き、子どもに読み聞かせ妻子に講義をする教育熱心な人でした。

 大拙氏は父について「子供の時の教育というものがよほど影響すると見えて、後来自分が本を書こうというようなことになったのも、あの時の一種の影響だね、それがあったものだと思っておる。」と述懐しています(原文は旧仮名遣い)。

 しかし長兄の元太郎は、父の死後、家が困窮していく中で医学校を退学し、小学校の教師になります。

 そして次兄の亨太郎は上京して弁護士を目指しますが法学校の受験に失敗、弁護士になる努力は続けたものの、生活のために役人になりました。次兄は70歳で弁護士の資格を得、その後すぐ亡くなったと言います。

 金井先生はこのことについて、

 貞太郎は幼くして父や兄(三男)と、そして、若くして母とも別れ、また兄たちが苦労して生きる姿を通じて、人間の「生と死」に向き合って来ていました。貞太郎は自身の不安や迷いを超え、いかに志を持って生きるかという「道」を求めていたことと思われます。

と述べています。

 貞太郎は第四高等中学校(後の金沢大学)に入学し、親友となる西田幾多郎(哲学者)に出会います。しかし経済的事情で退学し、17才で小学校の英語教師になりました。

 その頃から宗教や哲学に関心が向かい、19才の時、山岡鉄舟が再興した富山県高岡市国泰寺(臨済宗)の雪門玄松禅師に参禅しました。

(註)雪門玄松 明治期を代表する臨済宗の僧。波乱の生涯を送った。西田幾多郎は長く参禅し、居士号「寸心」を授けられた。

 しかし、雪門師に難しい禅語の意味を質問して「文字の意味がどうのこうのと聞くより、坐禅をしておれ」と叱られました。部屋で坐禅をしても何も教えてくれず、禅宗についての説明もないことに大拙氏は強い不満を感じ、四、五日程で帰ってしまったそうです。

 後に大拙氏は「叱られたのは当然だ」と述懐していますが、金井先生は「ここに、近代禅 ―思想が付与された ― の必要性(「禅とは何か」を説明する)の始まりがあったと考えられる」と言っています。

 伝統的には雪門師のやり方は普通なのですが、大拙氏は維新後に生まれ、近代知に接した世代ですから、あり得ることですね。

 この年、母が亡くなり、自宅を処分して英語を学ぼうと上京します。参禅した鎌倉円覚寺の今北洪川師の下には、山岡鉄舟中江兆民など維新に関わった名士が参禅しており、法嗣の釈宗演師は福沢諭吉に近代知を学んだ人でした。大拙氏は近代化以後の知的な禅に接することで、禅を深く理解することができたのです。

後に大拙氏は、

 人の心の底にある可能性を、素直に表に出させるのが禅なんです。人はふだん、自分の可能性を抑えつけているんです。だからいつもイライラしている。自分で自分を苦しめている。禅を知れば、人は自分の力を十分に発揮出来る。

と述べています(『30ポイントで読み解く「禅の思想」』)。

 この言葉の中には、近代化の影響で志の実現が叶わなかった兄たち、そして禅に救われた自分の思いがこめられているように感じます。

 父の願いは、貞太郎(結実の貞)によって実現した・・・と大拙氏自身は言っていませんが、そう言えると思います。

続きます。

参考文献『鈴木大拙全集第三十巻』(岩波書店)自叙傳

(補)野口整体は禅である(金井)

 意識以前にある自分

 野口晴哉先生による、「意識した自分」と「意識以前にある自分」についての文章を紹介します。この「意識した自分」=意識・自我、「意識以前にある自分」=無意識、として読むと、『禅と精神分析』とのつながりがより感じられると思います。

 金井先生は1967年4月に野口先生に入門しました。そしてこの文章は、同年『月刊全生』六月号に掲載され、『「気」の身心一元論』に引用されています。

 私はこれを読むと、当時の若い世代に対する野口先生の力強いメッセージを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

自分で作った自分

 私達が今「自分」と考えているもの、或いは自分はこういう事ができる、これこれこういう人間であるというように、自分が理解している自分は本当の自分の全部ではない。生れてから、意識し経験し、体験してきた事の総合が自分だと、みな思っている。つまり考え様によっては、それは生れてから自分で作り上げた自分である。

…意識して作られた自分、或いは他人の言葉によって「そうだ」と思い込んだり、自分の都合で「そうだ」と思い込んだり、自分自身で「俺にはこれ位の力しかない」とか、「俺にはこれだけしか力が発揮できない」とか言うように、いつの間にか自分に限界をつけて、 これこれこういうものが自分というものの実体だと、自分で思い込んでいる。しかしそれは、「意識した自分」であり、「意識で作った自分」である。

…意識が心を造ってきた。赤ん坊でも、始めは意識は少いが、生まれてからは造っていく。その意識以前にも、やはり自分があった。自分があったからそれを意識するようになったのである。

その意識以前の自分というものは、細胞をつくってゆく、子供を造ってゆく。眼球を造ってゆく、心臓を造ってゆく。皆そうやって、我々が今この世にあるような形になったのである。意識すら、意識以前の自分が作ってきた一つの働きなのである。

 人間の中には、もっともっと大きな力がある。無限の可能性を潜めている意識以前の自分に対して、意識して作った自分(自我)が非常に強固であるために、これが自分であるというように思ってしまって、本来の自分を発揮できなくしているのだ。意識で造ったものを打破する必要がある。 

 未刊の上巻では、金井先生は続いて次のように述べています。

 

「意識で造ったものを打破する(自我の再構成)」ことで、無意識にある「潜在的可能性」が現れるのです。

 活元運動を真に行うことでなされる、一時的な「自我の消失」の繰り返しは、これを涵養するものです。

 

 

 

自己知と「肚」―後科学の禅・野口整体 7

自己知とは

 これまで述べてきたように、鈴木大拙はこの『禅と精神分析』の中で、自己(セルフ)、無意識について語っています。

 自己知=自分を知る知というと、自分の性質にある意識できない問題や、潜在感情(コンプレックス)を知ることだと思う人も多いかと思います。

 そういうことも自己知の一部と言えますが、それが自分のすべてではありません。心の源泉である無意識が意識にはたらきかけること(心の自然治癒力)で、気づきが起こり、自分の全体像が理解できるのです(整体指導の場合は、愉気を通して指導者の無意識がはたらきかける)。無意識とは生命であり、裡の自然というものなのです。

 大拙氏は頭と「肚」を対比して「肚」は自然に最も近く「我々が来たりそこへ我々が帰るところの場」と言い、次のように述べています(『禅と精神分析』)。

・・・肚の部分とは一番自然と近密な関係にあり、自然を感じ、自然と共に語り、自然をよく調べることが出来る。調べるというが、これは知的な働きではない。私に言わせれば、知的というよりは情的である。ただし感情という言葉をその最も根本的な意味に使うとして、これは感情という語が一番適切と思う。 

 金井先生とこの箇所を読んだ時、先生は「今、感情というと負の面を捉える傾向が強いが、大拙が言う感情は「正」の部分だ」と言いました。そして、整体操法では「頭の緊張をお腹で調節する(お腹が整うと頭がきちんとはたらく)」と整体とのつながりを説いてくださいました。

 最後に、大拙氏が「私」を知る智=自己知について述べている所と金井先生の文章を続けて引用し、終わりとします(改行を増やしました)。

三 禅仏教における自己(セルフ)の概念

・・・もし我々が衷心(ちゅうしん)(心の底・まごころ)から、なんとかして真の自己を把握したいと念願するのならば、この科学が追求する方向をいっぺんヒックリ返さなければならぬ。すると初めて自己が内面から把握される。決して外面からではない。これはつまり、自己は自己の内側からのみ自己自身を知るように出来ている、ということである。

こう言うと、では、どうしてそんなことが可能であるのか、知識とは、必ず二つに分れて知るものと知られるものとがなければ成り立たぬものではないか、と言いたい人もいるだろう。これに対して私のいわくは〝自己知とは主と客とが一体になって初めて可能なのだ〟ということである。

・・・主観的とか客観的とかそんなことは実はどうでもよいのだ。我々がいのちがけで取り組むのは〝この生命とはどこにあるのか〟〝その生命の姿はどんなものか〟ということを自分自身で身をもって発見すること以外にはない。

(金井・これが「整体」に生きる態度)

  (金井)

大拙氏は「自分自身から物を引き離していく」科学の立場と、「見るものと見られるものとが一体になる」禅の立場について右のように説いています。そして主観と客観の分離による科学と、主観・客観を分離しない禅の観方がある、というわけです。

とくに自分を知る「自己知」について、主客の一体性を強調し、科学の「見るものと見られるもの(知るものと知られるもの)」という主客分離に対し、禅の「主客一体(主客未分)」を説いたのです。

 禅的な「見るものと見られるものとが一体になる」には、主体的自己把持(=身体を内側から主体的に捉える)感覚が発達することによって可能となるのです(これには立腰に依る瞑想が必須)。

 自分の内部を捉えるはたらき(主体的自己把持する感覚)によって、外部のものを捉えるのです(これが「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」に表わされている「自他一如」の感覚)。

「自己知」とは、科学の、いわゆる客観的な見方によって捉え得るものではないのです(科学的認識の世界には「自分」は入っていない)。

(補)科学には「自分のことを考える智」はない

科学には「自分のことを考える智」はない(第二部第四章より)

 参考として「科学的方法論では自分のことを考えることはできない」ことについての金井先生の文章と、河合隼雄氏の引用を掲載します。

 

金井・・・河合隼雄氏(臨床心理学者)は、近代以後発達した、科学的観察を行う主体としての「近代自我(理性)」について、次のように述べています(『宗教と科学』)。 

2 心と自然

・・・自然科学による自然の支配の強さは拡大されて、西洋の文化は全世界を支配するほどになったと言っていいであろう。

…近代自我はすべてのものを支配するほどの強力さを誇るようになったが、そこには大きい落とし穴があった。それは自と他を明確に区別し、他を観察することによって出来あがってきたものなので、そのシステムには「自」というもの、あるいは、自分の心(主観=感覚・感情)というものは除外されている。実際に、それが除外されているからこそどこでも誰にでも通用する法則を見出したのだが、それでは、そのシステムによって、自分の心のことをどう考えるか、という場合にそれは答をもっていないのである。

 金井

・・・科学の発達により客観的思考が人々を無意識に支配するようになった結果、「自分の心」である「主観(感覚・感情)」というものが分からなくなってしまったのです。

それで自身の内において、理性と感情の分離(=自我と自己(魂)との分離)が起きているのです。科学的社会を生きる上で必要な自我意識・理性のはたらきは、同時に自身の主観(感覚と感情)を切り離し、欲求をも抑えるはたらきとなるのです。

・・・整体指導者が身体に触れること、それは、手で心に(直接)触れることであり、個人指導での臨床心理は、「身体そのものである心(潜在意識)」にアプローチすることに特質があります。

 個人指導における臨床心理による智と、活元運動、そして正坐(また椅坐)や歩行時における「型」の把握、これら身体行により「主体的自己把持」へと進むことが整体指導の目的です。

科学にはない自己知―後科学の禅・野口整体 6

科学にはない自己知

 今回も『禅と精神分析』の続きです。鈴木大拙氏は、科学的見方の特徴について次のように述べています。

三 禅仏教における自己(セルフ)の概念

 科学はどの分野も一様に外に向っており、いわば遠心的であるし、物を取り上げて研究する場合、その物に対して客観的にこれを観察せんとする。つまり科学の立場は自分自身から物を引き離していく立場であって、決して見るものと見られるものとが一体になるといった方向を取ろうと努めることはないのである。

 かりに、自分の内部を見つめるといったような場合にあっても、科学者の立場は必ず内部のものを注意深く外部に取り出して、内部のものはあたかも自分のものでなく、外部から自分と無関係に与えられたもののごとくこれを自己から疎外されたものとして扱うのである。

・・・科学者は主観的であるということを極度に恐れる。けれども、我々が外部に立つ限り我々は終始局外者たることをまぬがれないことを銘記する必要がある。従って外部に立つということのために、我々は物そのものをじかに見ることは決して出来ない。

  前回も述べましたが、ここで「科学者」と呼ばれているのは、西洋で心の問題に向き合う精神科医フロイト派分析家のことです。

 金井先生はここを踏まえ「科学的な現代の教育によって、その思考法が(ある分野の能力が一定)身に付くと、右傍線部にあるような態度を無意識に取ってしまう」と述べています。

 何かを捉えようとすると、客観的に対象を観察する目と分析する理性が働いてしまい、「自分の感情を直截に感じることができない」というのです。

 これは、怒鳴ったりして感情を爆発させることではありません。それはブレーキが利かなくなっているだけです。また音楽や映画などに感情移入したり、他人の感情に同調したりすることでもありません。

 自分の感情を直截に感じるというのは、今、動いている情動を体で感じ「自分は今、こうなんだ」と受け止めることです。 しかし、小さな子ども感情のままに動いているだけで、自分の感情を感じているわけではありません。

 子どもは母親などに「嫌だったね」などと自分の代りに受け止めてもらわなければ自分の感情が分からない(心の中が分化・発達せず漠然としたままになり、感情を言葉で表現することができない)のです。

 このような大人の働きかけによって、子どもの心が育ち「自分の感情を受け止める主体」が形成されるのですが、知的発達は進んでいても感情の能力が低い人は近年急増しています(これは近代化以降、増加の一途)。

 金井先生はこのような問題を総じて「科学は、主観の未発達と主体性の欠如をもたらす」と指摘しました。

 そして「科学の時代だからこそ現代に多い「うつ」とは、「理性」を主とする自我が、本人の感情(理性によって不都合なものと認識された)と対立している状態なのです。」と述べています。

 西洋でも東洋でも、先進国と言われる国で抑うつ症や心身症などが急増している背景には、このような現代人の内面の問題があるのです。

ま た金井先生は、こうした問題は科学的社会に適応することだけしか視野にない教育にあるとし、「科学には自分のことを考える智はない(=自己知はない)」という問題提起をしています。

 客観視するだけでは心のことは分からないのに、それしか認識手段を知らないというのは、西洋人のみならず日本人である私たちも同様なのです。

禅とは無意識を啓く「修行」―後科学の禅・野口整体 5

禅とは無意識を啓く「修行」

 では前回の続き、鈴木大拙『禅と精神分析』に入ります。大拙氏は禅の無意識について次のように述べています。

…科学者は抽象を用いるのだが、抽象というものにはみずから発する力というものがない。しかるに禅はみずから創造の源泉の中に飛び込んで、その源泉の生命を、源泉そのものを飲みつくしてしまうのだ。この源泉を禅の〝無意識〟と言う。だが花は自分で自分を意識することはない。

 この花を花の無意識からめざめさすものはいったい何か。これが〝私〟というものである。テニスンは花を壁から引き抜いてしまったので、ここに失敗を犯している。しかるに芭蕉は垣根にヒッソリかんと咲いているいじらしい薺(なずな)を〝よく見る〟ことにおいて、その無意識から薺をめざめさせた。

 この無意識とはいったいどこにあるのだろうか。こればかりは言うことも語ることも出来ない。この私の中にあるのか、それとも花にあるものなのか。

 私がどこにと問うとき、それはすでにそこにもなく、おそらく他のどこにもないだろう。だから自分が一片の無意識となって黙るよりほかに仕方はない。

・・・科学者は一定の法則を設定して、この法則の網の目にかからぬものは科学的研究の領域以外のものとしてこれに手をふれようとはせぬ。この科学の網の目がどれほど精密に出来ていると言っても、これが網の目である限り、その目から脱け出すもののあることは必然であり、この目にかからぬものはなんとしても科学の秤(はかり)では測れぬのである。

 大拙氏は、ここで禅の無意識について語っていますが、これは聴講している人は科学的方法論に立脚することを重要視したフロイト派の精神分析家が多かったことによるものです。

 以前取り上げたユング(宗教性と教育を心理学に統合しようとした)と、フロイトでは無意識の理解が異なり、禅の無意識はユングの考える無意識に近いものです。東洋に深い影響を受けたユングは無意識について次のように述べています(『人間と象徴 上』)。 

無意識の過去と未来

無意識がたんに過去のものの倉庫(=フロイトの無意識観)ではなくて、未来の心的な状況や考えの可能性にも満ちているということの発見が、私を心理学にたいする私自身の新しい接近法へと導いていった。

…遠い過去からの記憶のみならず、まったく新しい考えや創造的な観念 ― 今まで、一度も意識化されたことのない考えや観念 ― も、無意識のなかから現われてくるというのは、事実である。それらは、心の暗い深みから蓮の花のように成長してくるもので、潜在的な心の最も重要な部分を形作っている。 

 大拙氏の引用文で「花」と言っているのは、松尾芭蕉の句「よく見れば薺花咲く垣根かな」の「薺(なずな)」のこと、「私」は松尾芭蕉のことです。

 金井先生は、花を無意識からめざめさせる〝私〟について、「私にとっては「整体指導者」を意味することになります(観察を通じて無意識を意識化する手伝いをする)。」と述べています。

 個人指導では相手と自他一如となることで、「いっさいのよろこびと苦しみを知る」、そして受ける側も、愉気に感応することによって無意識からめざめ、自分に気づく―という過程が進みます。

 これは指導する側も受ける側も、科学の網の目をいう枠にいては分からないことであり、「主観」で感得していくのです。金井先生は次のように述べています。 

近代科学は学習を重ねた上で、研究することによって行なわれます。

 理性(頭)で行なう近代科学(=研究)と、身体を開墾する東洋宗教(=修行)とは、「理性と身体性」という相違なのです。

 身体性は無意識のはたらきと関わっており、修行を通じて身体を開墾することは、無意識を啓くことです。

 近代科学によっては意識が発達し、東洋宗教によっては無意識が発達するという相違です。肉体や身体という表現をしますと、科学には肉体の「運動能力」はありますが、「身体性」というものはないのです(西洋のスポーツと、日本の道文化による伝統的身体技法(=型)という相違)。

 この「身体性」を向上させるのが、東洋宗教の「修行」というもので、そうしてもたらされる身体によって、実は、自分の意識がどう変容し、成長するかという問題なのです。

 整体を身につけていく上では、受ける側も心の角度(自分の正当性うんぬんを捨て、感情に捉われた状態を終わらせるという意欲)をはっきりさせる必要があります。また、身体感覚(気づきの能力)が鈍いままでは愉気の感応も十分ではありません。

 そのために、指導を受ける側も「整体とは何か」を理解し、禅的修養(無意識を啓くための修行)を実践する必要があるのです。

 大変長くなりました。次回に続きます。