野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

仏教東漸―後科学の禅・野口整体 9

仏教東漸―極東の日本から、さらに東のアメリカへ 

 釈宗演師から鈴木大拙へと引き継がれた「仏教東漸」の志とその経緯については、webなどでも様々な資料を読むことができ、釈宗演師のところで再度述べる予定ですのでここでは割愛します。

 一八九七年、大拙氏(26歳)は、釈宗演師の勧めによりアメリカに行くことになりました。そしてケーラス運営の出版社・オープン・コート社で、老子『道徳経』など東洋哲学関係の書籍出版の手伝いをすることになったのです。

しかし渡米後まもなく、大拙氏は、アメリカでの生活を通じ、ケーラスらの考えている仏教は「宗教ではなく倫理主義」と思うようになりました。

 大拙氏は、釈宗演師が再渡米する計画が浮上した際(1905年)、手紙でアメリカ人に説法をする時の注意点を意見しています。それは「西人は文字に拘泥するくせ」、すなわち「主観的のことまでをも客観的に解せんとするくせ」がある・・・ということでした。

 これについて金井先生は、

アメリカは近代文明・科学(客観性重視・理性至上主義)によって造られた国であり、滞米生活八年を経た大拙氏は、アメリカ(西洋)人に対する理解が進む。

 と述べています。

 また、当時のアメリカは、西部開拓時代が終わり、都市化と工業化が急速に進んでおり、一代で億万長者に成り上がる者がいる一方で、極度の貧困層が増大するという、むき出しの資本主義社会でした。欧米社会は、自国内でも階級や宗派の違いで対立し、皆が競争に追われているというのが実態だったのです。

 1902年、宗演師の坐禅指導を求め、アレキサンダーラッセル夫人(サンフランシスコ在住)が来日しました。彼女は鎌倉円覚寺での参禅の後、キリスト教から仏教に改宗し禅者となるという本格的な取り組みを行いました。

 釈宗演師は来日した当時の人々について次のように述べています。 

 利益を得るとか、幸福を得るということが人々の目的であるはずなのに、その目的のために、かえって目的に反し、常に追い駆けられ、苦しめられて、闇から闇に飛び込んでしまうというような状態ではないだろうかと思う。

(『明治の国際派禅僧、アメリカに行く』釈宗演・鈴木貞太郎)

  近代とともに宗教が学問を支配する時代が終わり、キリスト教国には仏教が入り、仏教国にはキリスト教が入り、研究する時代になりました。そして西洋では、心の安らぎを得るという目的に適った、キリスト教以上の宗教が求められるようになったのです。ラッセル婦人一行もこのように考え、坐禅に巡り合った人々でした。

 宗演師は同著で次のように続けています。 

四、坐禅に限る

ラッセルは高等教育を受けていて、中以上の財産を有する、日本で言えば豪商とでも言われるような、別に不足はない身分であった。不足のない身分ではあったが、競争の中に立っていて、この中で惑乱されない心の安寧を得なければならないと思ったに違いない。ラッセルだけではない。ほかの人もそうであった。

…仏様の教え方は、ただ神や仏をつかまえてきて、「わたしを幸福にして下さい」、「私の罪を消し去って下さい」と、迫るように責めるように祈れというのではない。清らかな心の状態を維持していなさい、換言すれば心の統一を保っていなさいということである。

釈迦自身がその手本を示した。釈迦は…仏や神に向かってある種の祈祷をしたことは一遍もないと伝記に書かれている。

どんなことが心の清らかな状態であるのか、心の静かな状態であるのかを探求し、換言すれば、六年間坐禅しておられた。そして暁の明星を見て、それが真に清らかな状態である、わが心はあたかも明星のごとく清らかな状態である、また心そのものが清浄の極まった状態であるということを自覚されたのである。 

 一九〇五年六月、宗演師は、ラッセル婦人の招きに応じてに再度渡米し、滞米中の鈴木大拙氏を伴いアメリカ各地で講演し接化(禅指導)を行い、日本人の僧として、初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師となりました。

 そして大拙氏は、「東洋的思想または東洋的感情とでも言うべきものを、欧米各国民の間に宣布する」という大望を抱くようになったのです。それは、日本が必死で追いつこうとしている欧米の人々が、心の飢えに苦しんでいると知ったことが大きな要因であったと思います。

参考文献

「近代グローバル仏教への日本の貢献──世界宗教会議再考」(ジュディス・M・スノドグラス/堀 雅彦訳(論文)

鈴木大拙とは誰か』堀尾孟「眺望大拙像」