野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観二1

二 閉鎖系の人間観・西洋医学と開放系の人間観・野口整体

 金井先生は、石川先生の著書を通じて「開放系と閉鎖系」という現代物理学の概念を知った時、「わしはこれが観えるぞ」と笑っていました。もっと前は「圏外」という言葉で「閉鎖系」の状態にある人を言い表したりしていましたが、「開放系と閉鎖系」は気で観る人間観によりフィットしていたようです。では今回の内容に入ります。

1 開放系の生命観である野口整体の気の人間観

 「開放系」は、二十世紀初頭に生まれた現代物理学(註)の考え方で、新しい自然科学の観方です(現在では複雑系と呼ばれる)。

(註)現代物理学

 量子力学以後の物理学のこと。観測という行為が対象物に何らの変化ももたらさない立場に立っている古典物理学(現代物理学以後、それまでの物理学に対する呼び名)に対して、量子力学は観測によって対象物の状態が変化するという立場をとる。

  外界と「物質・エネルギー・情報」の交換を行っているシステムは「開放系(オープン・システム)」と呼ばれます。これに対して、外界と「物質・エネルギー・情報」の交換をしないシステムは「閉鎖系(クローズド・システム)」と呼ばれます。

近代科学は、自然と社会を自己完結的な「閉鎖系」として捉え、本来、連関構造である生態系と文明系のつながり(両システムの物質・エネルギーは循環していて開放系であること)を捉えることができませんでした(古典物理学では、すべてが閉鎖系で考えられていた)。

 ここでは「閉鎖系・開放系」という概念を用い、体を自己完結したシステムとして見る西洋医学の閉鎖系思考と、野口整体の開放系思考の相違について考えてみます。

  西洋医学は病症を対象とし、それに対する療法を行うものですから、そのために病名の特定が第一となります(病気中心主義医学)。

 こうして概念化された病名を通して、医師は患者に、患者は自身に向き合うことになり、特定された病名は固定観念化されていきます。こうしたあり方は、実は「観測によって人に影響を与える」ことなのです。

 師野口晴哉の態度は、生きている人間の全体を捉えるもので、野口整体では、人を「生活している人間」として観、「関係性(どうつながっているか)」の中で「身心」を扱うものです。

 その第一は、自身の「心と体」という関係です。また体の中での部分と部分の関係、さらに自分と家族や、会社での人間関係、地域社会との関係というものです(例・第一章一 1 病症観には文化的背景がある)。

「関係性(つながり)」において物事を考えるのが東洋思想で、これは「気」を本(もと)にしているのです。

 そして、人間関係の中における個人として捉えようとします(全体性・関係性 → 開放系(複雑系))。

 関係性において重要なのが「気」なのです(気で観ることで、「個人の内側に潜む力の開花」を目的とする)。

 身心一元つまり「心と体は一つ」であるには、「気」は欠かせないものです。師野口晴哉は「気は心と体をつなぐもの」と繰り返し語っていました。気は、古代ギリシアの医聖・ヒポクラテス(前460年頃~前370年頃)の時代には「プネウマ」の語で呼ばれており、この時代の医療基盤には「自然治癒力」がありました。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観 一1

第二章 野口整体の生命観と科学の生命観

― 東西の自然観の相違より生じた生命観の違い(自然治癒力の有無)

 今回から第二章に入ります。「東西」とは、東洋と西洋ということですが、自然観・生命観という文化的な背景が、普遍的・客観的とされている近代科学の観方にも反映されているという内容です。

 以前、梅原猛氏による西の文明を「小麦とチーズの文明」、東の文明を「米と魚の文明」と言う喩え話を紹介しましたが、生活の糧を得る手段も、自然とのかかわり方も異なっているのが西と東の文明です。

 もちろん世界には南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、海洋諸島などがありますが、ここでは西洋の自然観と生命観の特異性と近代科学の関係を明確にするため、東洋と対比させる形で話を進めていきます。では今回の内容に入ります。

 一 近代科学の非連続的自然観と野口整体の連続的自然観― 西洋の生命観を東洋の生命観によって相対化する

 1 近代科学の元にある、人間と自然を分離する思想・非連続的自然観

 本章では、第一章で述べた、西洋医学野口整体の「生命観の相違」が「どのように生じたか」について、それぞれの基となる近代科学と東洋宗教が成立した背景(自然観の違い)から考えていきます。

 石川光男氏は、西洋と東洋という大きな文化区分が生まれた背景には「気候風土の違い」があることを挙げ、そこに住む人々の自然観(価値判断の根底にある自然への価値観)から、宗教や「世界観」(世界についての統一的見方、考え方)が生まれてきたと説いています。

 そして、西洋では、神 ― 人間 ― 自然の間には境界があり、これを「非連続的自然観」と言い、東洋では、神 ― 人間 ― 自然の間には境界はなく、これを「連続的自然観」と言う、と述べています。東洋と違い西洋では、自然は、人間にとって「対立した存在」なのです。

 氏は、西洋の「非連続的自然観」と近代科学との関係について、次のように述べています(『西と東の生命観』)。

非連続的自然観

 近代科学は、人間と自然の分離を前提として出発している。人間と自然を切り離し、観る人間と、観られる自然、すなわち、主観と客観(主体と客体)の明確な分離によって、人間の前に対象として立てられた自然世界のしくみを明らかにしようという思想が近代科学の土台となっている。

 人間と自然を分離する思想は、同時に、人間と他の生物を分離する思想にもつながっている。自然の中で人間を特異な存在として分離する思想は、人間が自然の中の主人公として、自然を改造し、支配するという考え方を生み出す下地の役割もはたしている。

 このような非連続的自然観の原型は、ヘブライズム(註)やキリスト教の思想の中に見いだすことができる。通常、キリスト教は、科学と対立する概念として理解されている。しかし、ヨーロッパ文化のバックボーンとなっているキリスト教思想の培地(生育土壌)としてのヘブライユダヤ思想の中には、すでに近代科学と共通の自然観が流れていることを見逃してはならない。

 

  旧約聖書の創世記第一章に、「神その像の如くに人を造り給えり。」という記述があるが、これは人間だけが神に似た特別の存在であるという考え方を示している。創世記第一章には、さらに次のような記述がみられる。

「神彼らに言ひけるは、産めよ、殖えよ、地に充てよ、之を従はせよ。海の魚と天空の鳥と地に動くすべての生物を治めよ。」

  村上陽一郎氏は、著書『生命思想の系譜』の中で、創世記のこのような記述は、神が自らの身代りとして人間に自然を制御支配させるという、「自然統御型」の思想を反映していると指摘している。

 このように「自然統御」の思想は、自然界を支配する神の理性や意志を、人間が神から与えられた理性によって読みとり、神の代りに自然を統御するというキリスト教的な人間観と深い関係がある。

一方、近代科学という学問形態を生み出したのはギリシア文化であるといわれている。ギリシア人にとって、その哲学的な問題の中心となったのは、「ものとは何か」という問題と「変化とは何か」という問題であった。

 この二つの根本的な問題は、ものの空間的、時間的変化、すなわち「運動とは何か」という問題を自然現象の中から読みとる下地をつくることにあった。この問題がガリレオによってひきつがれ、実験によって、自然の中に内在する新しい法則性が見いだされることになる。

 言いかえれば、自然現象の起こり方を、神の意志としてではなく、論理的、体系的に説明しようとする「問いの立て方」が、近代科学にひきつがれている。

 近代自然科学は、このようにギリシア文化の論理的思考と、ヘブライズム ― キリスト教がもっていた自然と人間の分離思想の融合を土台として育ってきたということができよう。

 すなわち、近代自然科学を生み出してきた思想の基本的特徴は、近代科学が生まれた十七世紀以前のヨーロッパ文化の思想的枠組みを受け継いでいて、後に述べるように、アジアの思想的枠組みとは本質的に異なっている。

(註)ヘブライズム 

ヘブライ人(古代イスラエル民族)の思想・文化で、旧約聖書に見られる自然支配の思想を意味する。キリスト教イスラム教ともに旧約聖書聖典としている。

  このように石川氏は、古代ギリシア以来の「論理的思考(理性)」の発達と、パレスチナ地方の砂漠で生まれた宗教であるユダヤキリスト教の「非連続的自然観(分離思想)」が近代科学を発達させたことを指摘し、近代科学は「ヨーロッパ文化に固有の特質と密接に結びついて生まれた学問体系」であることを説いています。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観一3

 今回の内容には東日本大震災の時の「福島原発事故」という言葉が出てきます。今年、あれからちょうど10年が経ちましたが、福島の原発問題は未だに解決していません。

 そして、新型コロナウイルスの問題が起きましたが、ワクチン開発に莫大な資金が注がれ、切り札として期待されていますが、人間の免疫系そのものが正常性を失っているかもしれないことや、人間と自然の関係が破綻しかけていることには、ワクチンほどの資金や人的資源が注がれることはありません。

 科学技術はこの10年で飛躍的に進歩して、目先のことは解決能力が増したように見えますが、本質的な問題は解決されないままであり、むしろ悪化しているとも言えます。そうした問題の根本に、近代科学の問題があるのです。

 3 今こそ、科学・近代西洋文明を相対化して理解する時代― 科学の「ものさし」とは何か 

「近代科学と東洋宗教」という大きな世界観の相違が生まれた理由として、1・2のような説を以って考えたことで、近代科学と科学的現代社会に対する理解を深めることになりました。

 敗戦後の日本は、東洋宗教文化の伝統を失いました。石川氏は、科学的教育のみに偏った戦後日本の民主主義教育では、科学の持つ思考の「非連続性=閉鎖性」がいつしか人の心を支配することを指摘し、現代の人々がこのようなことに対して無関心であることに警鐘を鳴らしています。

 私がこのようなことを云々(うんぬん)するのは、野口整体は「つながり(連続性)」でできているからです。

 石川氏は、「化学でも生物学でも、自然科学という学問はすべて「絶対普遍」の「客観的真理」を扱っているという考え方は、かなり社会に定着している。」(『ニューサイエンスの世界観』)と指摘し、この常識を先ず外してみることを提案しています。

 そして氏は「近代科学や民主主義が西欧で発達し、それらがいずれも全体の中の「部分」を重視しているということは、西欧文化を支える一つの特質を浮き彫りにしている。」(同著第一部第一章)と、この特質が決してあらゆる文化に共通の普遍的なものではないことを明らかにしています。

 さらに、現代の人々がその普遍性を無意識的に信じてきた(=それが常識となっている)のは、背景にある文化を教えられていないことに要因があると強調しています。このため、科学の持っている「ものさし」とは何かを理解する必要があると説いているのです。

 科学は、世界的には一地域である西欧の文化性が色濃く反映したもので、「絶対普遍」とは言えないものなのです。

 私は、1967年という科学万能主義の時代に野口整体の道に入りました。万能主義は、絶対主義とほぼ同義であり、絶対化して捉えることは狂信と同じです。

 しかし、この道に入れば、その中では「野口整体絶対主義」という面があり、西洋医学を真っ向から否定的に捉える人がいました。これは個人的な、西洋医学での不幸な体験による「思い込み」が元でしたが、いずれも絶対化して物事を捉えているのであり、両者ともに偏った考え方だと言えます。

 私が石川氏に学ぶことは、西洋医学の元にある「近代科学」を理解することで、野口整体の元にある「東洋宗教」を相対的に捉えることになりました。(これまで近代科学教育のみで、本書で説く東洋宗教文化を初めて知る人は、近代科学を相対化することになる。)

 そうして、私は、「野口整体を社会的に位置付ける」、さらに、より意識の高い人々に伝えるためには、「近代科学の相対化(註)を説く」ことを通じて、東洋宗教(東洋的思考)を基盤とする野口整体を伝えようと考えるようになったのです。

 現代では、意識が発達している人というのは、須らく、無意識的に科学(客観的な見方)を絶対化して捉えているからです。

 それは、近代科学的に発展してきた西洋医学の科学性を理解することで、対比的に野口整体の観方にある東洋宗教性を理解することです。

「心と体のつながりはどのようなものであるか」を捉えることは科学的にはできないのです。

できないという以上に、科学は「心身分離」が原則ですから、このようなこと(心と体のつながり)は近代科学(西洋医学)ではないのです。

 日本では明治以来、そして敗戦後はさらに、近代科学を絶対的なものとして社会と生活に位置づけて来ました。

 福島原発事故の問題を引き続き抱える今こそ、「科学的価値観」を相対化すべき時代です。科学の価値観が唯一絶対のものではなく、他の視点、立場からの考え方があることを充分理解し得る時代と考えます。

(註)相対化 一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること。

野口整体と科学 第一部第二章 野口整体の生命観と科学の生命観一2

2 東洋の連続的自然観と身心一元論― 自然観と心身観の相違より生じた文化の違い

  ギリシア文化(ヘレニズム)の論理的思考と「神の代りに自然を統御する(人間は自然の主人)」というヘブライズムの融合(=キリスト教)を土台とした西洋思想では、人間は自然の外へ出てしまっていて、そこから自然を客観として見ています。

 このような西洋思想を基に成立した近代科学(の考え方)は、客観主義の観点に立ち、物理学的な観察から得たモデルを基本にして、その延長上に生命現象や人間を研究するもの(生物学・近代医学など)です(近代科学は物理学が基盤)。

 一方、多種多様な生態系を持つ自然を背景に生まれた東洋的自然観は連続的であり、東洋宗教である儒教・仏教・道教は「人と人、人と自然とのつながり」を教えていると石川光男氏は説いています。

 東洋的な考え方は、人間は本来、自然のはたらきとの調和と共鳴のなかで生きているというもので、自然の中に溶け込むことを良しとしたのです(これが「近代科学と東洋宗教」)。

 気候風土や地理による人と自然の関係(自然観)が、心と体の関係にも反映し、西洋では、人間が自然を支配する非連続的自然観から、頭(理性)が体(自然)を支配するという「心身二元論」が生まれました。

 そして東洋では、連続的自然観から「身心一元論」が生まれたのです。身体における二元論の中心は頭(理性)で、一元論の中心は腹(肚・丹田)なのです。このような東西の「心身観」の相違は、文化の相違となって随所に表れてくるのです。

 日本人と西洋人の身体的な違いによる文化的相違とは、例えば「鋸(のこぎり)」。日本の鋸は引いて切れるように出来ていますが、西洋の鋸は押して切れるように出来ています。日本の鉋(かんな)と西洋の鉋の違いも、引いて削るか押して削るかにあり、包丁も同様です。

 引いて力が出るのは、腰が中心の体であり、押して力が出るのは肩が中心となっている体で、日本人は引くことで力が出、西洋人は押すことで力が出るのです。

 この体の違いが相撲とボクシングを生み出しているのです。

 こうして、日本と西洋の「身体文化」を比較してみると、日本の伝統的な「腰・肚」文化に対して、西洋は「頭・肩」文化と名付けられるほどの相違があります。

  私は、日本人と西洋人の身体的な違いと文化的相違の関係について、これまでも「野口整体の視点」から折に触れ述べてきましたが、この度、石川学の学びを通じて、世界共通の普遍的真理とされる科学(科学的なものの見方)が、西洋の自然観・宗教観を背景に持つと知ったことは、大きな学びでした。石川氏のこの「欧・亜の思想的枠組みの対比」が、本書の副題「近代科学と東洋宗教」です。

 

野口整体と科学 第一部第一章 野口整体と西洋医学―身心一如(一元論)と心身分離(二元論)四5

5 盲目的西洋文明追随から脱却し野口整体の方向性を理解する― 本能に発する療術行為「野口法」 

 私が初めて、師野口晴哉にお会いしたのは1967年4月2日の整体指導法初等講習会でした。講義の始まりに板書をされたのは「背骨は人間の歴史である」という言葉でした。

これは「人がいかに生きてきたか」が、体に、それは中枢である背骨に刻まれていることを意味します(指導を行う上で、その人の歴史を踏まえることが肝要)。

「潜在意識となっている心が背骨なのだ」と、それこそ私の「潜在意識」に刻まれたのです。背骨は心なのです。

 師は、「続療病談義 道は通じて一たり」(『野口晴哉著作全集第二巻』)の中で、西洋医学について次のように述べています。これは、1942年当時、弱冠三十歳の師が、療術家に向けて書いたものです(『治療界』1942年1月30日発行)。

(ブログ用改行あり・現代仮名遣いに変換 近藤)

召使い療法になるなということ

…西洋医学を召使いにするつもりなら、生理解剖を学んでも病理を習つても一向に差支えはない。だがその整然たる形式に眩惑されて、吾ら自らのものを失ってしまってはいけない。

…西洋医学は科学的であろうが、その医術は生きたものを生きたものとして見ない。云いかえれば科学する心が充分でない。科学的な機械や理屈や薬物を使うことが、医術が科学的である理由にはならない。

解剖的知識の機械学的類推から人間の生きていることを眺めて、そこからその治療を出発させるから、組織に異常があれば、その異常組織を切って取去ることが、根本的療法の如く思い込んで、生きた人間を生きてゐるものとして、全体的統一的に扱はないのは、西洋医学の為にもそれを受ける人間の為にもまことに惜しいことだ。

その見方が東洋的に又日本的に、生きている人間の全体を全体とし、生きているものとしてその生命を直観し、その直感したことを尊重して治療を行う基礎とするようになれば、吾々も彼を現代医学と呼んで西洋医学と呼ばないつもりだ。

 西洋医学を修めた人々のうちにも、このことに気づいている先覚者も多いことだろう。そして西洋式医術は、病人が痛いと云えば先ずその痛みを止めようとし、熱があって苦しいと云えば無理をしてでも熱を下げようと努め、いつも病人の召使い的立場にあって、護り補うことをのみ為して、却つて体自身の自然的な力の発揚を妨げ、頼らして依らしめるあまり、病人の心を弱くし、無気力にし、その上、形に於ては医術の力を強調して、人間本来の力を軽視することを教えるから、その病人はいよいよ臆病になるばかりだ。

  野口整体では、病症そのものを対象とせず、身体が整うことを第一とします。「整体である」とは、病症がある場合、病症経過を理解することです(本章一 1参照)。病症理解には、指導者による潜在意識の観察が鍵となります。 

 それは、4で紹介したホリスティック医学の理念⑤の「病の深い意味」を捉える上で、指導者の関与は必要なものだからです。

 整体指導(個人指導・活元指導)は「体自身の自然的な力の発揚」を応援するもので、野口整体は「病症を自然経過する」ことで、「生命への信頼」を培う道なのです。

 このため、「生きているとは」という生命哲学・生命観を養う全生思想(野口晴哉著『治療の書』『風声明語』『偶感集』『大弦小弦』、野口昭子著『回想の野口晴哉』など生命観に関する書)に学ぶことが肝要です。

 また、師は「続療病談義 道は通じて一たり」で、次のように述べています。 

 解剖生理の学を修むるに一生懸命になることは大いによい。しかし解剖生理の学を知らないで治療を為すことは出鱈目だというような考えは本当ではない。

 人間の本能的行為である療術行為は、必ずしも解剖生理の学に準拠するものとは限らないし、解剖生理の学から出発しているものでもない。

 犬や猫が自己治療するに解剖生理や薬物学を知って、舌で傷口をなめ草を嚙じるのかと問うこともあるまい。乳児が母親の乳房を吸うは果して知識の故か。

 療術行為の出発点は知識でなくて本能である。 

 

 私は本能的能力と、東洋宗教を思想基盤として生じた野口整体を社会的に位置づける、そしてより意識の高い人々に伝わるため、「近代科学を相対化(一つの見方が唯一絶対ではないと)して理解する」という石川氏の手法を取り入れました。

 東洋宗教を全くというほどに伝えられていない現代人にとって、野口整体を理解する初めとして、西洋医学の「科学性」を理解することが必要なのです。

 石川氏は『新しい日本の教育像』「第三章 文明の特質に及ぼす世界観の相違」の前文で「盲目的な西洋文明追随の呪縛から脱却し、日本人が進むべき方向性の手がかりをつかむ」と述べていますが、この「盲目的西洋文明追随」に対する考え方は師野口晴哉と同じです。

 学びが進む中、折良く出会うことができた石川光男氏の著作からの影響は大きく、「科学の哲学性」を学び、そして「ユング心理学」へと流れを導いていただいたように思います。

野口整体と科学 第一部第一章 野口整体と西洋医学―身心一如(一元論)と心身分離(二元論)四4

 今回の内容は「健康と生き方」が別々に考えられるようになったことと、西洋医療との関係です。

 残念ながら、新型コロナウイルスパンデミックによって、病症を物質的な面から考え、「病気(ウイルス)と闘う」という傾向は強まっていると思われますが、その一方でストレスが健康に与える影響は再認識された面があります。

 現在、新型コロナウイルス感染者は世界的に減少に転じているそうですが、アメリカの新型コロナウイルスによる死亡者は50万人を超えたと報道されました。

 アメリカの死亡者の多さは特に目立っているのですが、新型コロナウイルスとは別に、アメリカでは過去10年の間に顕著となっている「絶望の病と死」が問題となっており、平均寿命が2015年から2017年にかけて毎年減少している要因とも考えられています。アメリカ人の心の中に絶望が巣食い、自殺や薬物依存、様々な疾患の素地になっているというのです。

forbesjapan.com

 こうした問題には社会的・経済的格差の問題も深く関わり、個人の問題とだけ考えることはできませんが、感染症に対する抵抗力の低下とも無縁ではないと思います。

(参考)

www.msz.co.jp

 日本は新型コロナウイルスでは欧米のような死者数が出ていませんが、自殺者の急増、抑うつ症状の急増は深刻になっており、心理的な面での影響は海外と変わらないのではないでしょうか。

 こうしたことを踏まえ、今回の内容を読んでみてください。

4 健康と生き方を全体的に捉えるホリスティック医学と全生思想 

 自分の心というものが除外された近代科学(第二部第四章「自分を知る智」とは で詳述)によって発達した西洋医学により、現代では、自分の病気、自分の体の具合の悪さ、という「体に起きていること」を、自分(の心)と切り離して(=客観的に)捉えています。このような捉え方を「客観的身体観」と言います。

「客観的身体」とは、持ち主の「主観の及ばないもの」を意味し、心と体、精神と身体が切り離された身体のことです。

 このような身体観が人々の思考を無意識に支配するようになった結果、医師と患者は「管理する者」と「管理される者」― お任せ医療 ― という関係になったのです。

 石川氏は、西洋医学が「生き方」の問題を見失っている、という反省に立つことで生まれたホリスティック医学について、次のように述べています(『複雑系思考でよみがえる日本文明』)。 

ニューサイエンスとホリスティック医学

…「病気はありがたいできごと」という気づきは、人生を変え、自然治癒力を回復させる。そのような意味でホリスティック(全体的)な考え方は、生き方の問題と連動している。しかし、心と物を切り離し、物質だけを扱う自然科学からは、生き方は見えてこない。

この特質は長所と欠点の両面を持っているにもかかわらず、これまではその欠点に気づかずに文化が進展してきた。ホリスティック医学(全人医療)は、合理主義の長所の陰にかくれていた科学の欠点をかいまみる機会を提供してくれているように思われる。

  科学である西洋医学では「病症」は肉体的にのみ捉えられ、「心」との関係、また「生き方」との関係の中では理解されてきませんでした。

 1の引用文に見られる「精神と身体の統合された全体同士の触れ合いが忘れられた」医療に対する反省から、医者と患者の人間的な関係を回復しようとする傾向が、1960年代のアメリカで生まれました。

 これは、西洋近代医学による、人間を生物化学的な機械として見る枠組み「機械論的生命観」それ自体に問題があるという気づきだったのです。

こうして、人間を「身体・精神・霊性」の三つの面から捉えるホリスティック医学(全人医療)や心身医学が生まれてきました(これらは近代科学の枠組を超え、宗教性が具わる)。

 これは、東洋思想による影響なのです。

 アメリカでホリスティック医学協会が発足したのは1978年(註)です。

(註)1992年には、アメリカ国立補完代替医療センターが設置され、西洋医学に代わる医療の研究が本格化した。同センターは、2014年12月、国立補完統合衛生センターと改称された。研究は、天然物(薬草など)と心身療法(鍼・瞑想・ヨガ・手技療法など)の二つのグループに分けられる。

 日本では1987年、「日本ホリスティック医学協会」が設立されました。そこでは、ホリスティック医学の理念を次のように説明しています。

① ホリスティック(全的)な健康観に立脚する。

自然治癒力を癒しの原点におく。

③ 患者が自ら癒し、治療者は援助する。

④ 様々な治療法を選択・統合し、最も適切な治療を行なう。

⑤ 病の深い意味に気づき自己実現をめざす。

 このような「ホリスティック医学」以前には、自然治癒力という概念は西洋近代医学にはありませんでした。

そして、患者は「自らの生活を改め、自身を正す」こと。そして医療者は、「援助者である」ことなど、欧米において医療の反省が見られる現代です。

 ホリスティック医学は、観られる人、そして観る人においても、自らの身体にどのようなことが起こっているかを主体的に受け止める力(からだへの気づき)を育むという視点に立ち、自らの内側から体験するからだを対象とするものです(第一部第三章二 7)。

私の個人指導はこのようなものです(ただし④を除く)。

野口整体と科学 第一部第一章 野口整体と西洋医学―身心一如(一元論)と心身分離(二元論)四3

3 主体性を失うことになった心身二元論と機械論的生命観

― 主体性が自然治癒力の源

  西洋医学の基にある近代科学の大元には、「自然支配」があるのです。支配には、「するものとされるもの」という二分が前提されています。

 西洋医学の科学的特徴とは、生命のはたらきを「健康×病気(善と悪)」、「生×死(勝利と敗北)」という二分法で考えるものです。そのため西洋医学では、病気を無くそうとしたり、死なないようにしようとします。

 そこで、医療の在り方は「体という自然」を支配する方法論となっているのです(二分法は、古代ギリシアプラトン哲学の二項対立的思考(形相(イデア)と質料(ヒュレー))に始まり、自然支配は、ヘブライズムに始まる)。

 近代において確立した機械論的生命観では、「自然治癒力」は前提されておらず、生命力を活用する考え方をするのではないのです。

 石川氏は「健康×病気」の二分法について、次のように述べています(『複雑系思考でよみがえる日本文明』)。 

ニューサイエンスとホリスティック医学

自然治癒力という概念は、日本人にはなじみやすい考え方であるが、過去の西洋医学の中には含まれていなかった。今から十数年前、海外で講演をするために、医学大事典で自然治癒力の項目を探したが、その項目がなかったことを鮮明におぼえている。ところが、中国医学では自然治癒力が医学の基本として重要な位置を占めている。

…現代人は、病気を医者が治してくれることを期待する。この考え方は、患者自身が病気を機械の故障と同じように考えていることを意味する。機械は自分で故障を治せないからである。

しかし、生物は自らの力で異常を修復する機能をもっている。その機能によって病気が治るという視点に立てば、患者自らの主体性によって生活態度や人間関係、あるいは心のもち方を改善することが、病気治療の基本であるという結論に達する。

このような考え方は、心と体を一体としてとらえる自然観(身心一元論)からみれば当然の帰結となるが、心と体を分離する自然観(心身二元論)からは容易に生まれてこない。

最後に触れておきたいのは、「健康はよいことで、病気はよくないこと」という二分法的な考え方である。確かに健康は望ましい状態であるが、常に健康に恵まれている人は、健康への配慮に欠ける場合が多い。

逆に考えれば、病気は自分の生き方を反省し、生活を改善する絶好の機会であり、ありがたいことなのである。痛みがあり、苦しみがあるから人間は異常に気づき、それをきっかけとして成長することができる。

 「痛みがあり、苦しみがあるから人間は異常に気づき、それをきっかけとして成長することができる。」これは、師野口晴哉の「心でも体でも、異常を異常と感ずれば治る」という言葉と同じで、「気づく」ことで癒しが起こり、それは成長へとつながるのです。

 引用文中の「生物は自らの力で異常を修復する機能をもっている。その機能によって病気が治るという視点に立てば、患者自らの主体性によって生活態度や人間関係、あるいは心のもち方を改善することが、病気治療の基本である」という「主体性」を失ったことが、近代(デカルト)哲学の心身二元論と機械論的生命観に因る大きな問題なのです(第一部第三章で詳述)。

 野口整体の指導者である私の立場は、「病気が治るのは本人の自然治癒力に依拠する」ものであり、それは、本人の生活態度が主体性を取り戻すことで、自然治癒力が復活する(生命力が活性化する)という考え方に立っています。

 ですから、身体の状態(病症)の背景にある「その人の生き方」に関与していくという指導内容なのです。

 この「生活態度や人間関係、あるいは心のもち方を改善する」という主体性を養うことが、野口整体(整体指導)の目的とする処です(本書で説く教養と修養)。

 西洋医学は人間の体の状態を、健康と病気、それは正常と異常に分け、異常である病気を研究するものです。病気のありよう、つまり病理学研究を中心に発達したものです。

 これは、異常が見られなければ、医学の対象にはならないことになります。これに比し、野口整体の理念は「自分の健康は自分で保つ」ことで、そのため「整体を保つ」という、古くは「身を保つ」と言われた養生の考え方を教育することなのです。

「整体」を保って生命を全うすることが、野口整体の全生思想です。

 科学である西洋医学では、「生き方」や「死」について、どう向き合うかは扱われていません。科学には死生観(=生き方・死に方についての考え方)はないのです。ですから医学の中には宗教性がないということになります。

(宗教者であり科学者であったデカルトが宗教裁判(宗教と科学の争い)を調停し、科学はモノの研究に限定され、科学には、元来「心」や「生き方」は含まれていない)

 一方、私が取り組んできた野口整体は「いかに生きるか」、それはどうしたら「自分の命を活かすことができるか」ということに取り組んできたと思います。これが全生思想です。

野口整体は、医療・教育・宗教(生き方)を包括する)