野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体の生まれた日ー野口整体と西洋医学 1

野口整体の始まりと近代化

 前回、私は

「金井先生は、野口先生が何に対して抵抗し、何を守ろうとしたのかを、次の世代に伝えなければという思いがあったのだと思います。」

 と述べました。西洋医学野口整体の対比というのは、抵抗を感じる人も意外と多いのが現実です。それは現代医学と戦前の医学との水準の違いもありますし、社会制度や人間観にまで浸透している西洋医学を、戦前よりも現代の方が客観視し難くなっているということがあるかと思います。

 そこで、近代化とともに導入された野口整体と西洋医学という歴史を考えてみることにしました。

※近代初頭の西洋医学

日本の医療制度は明治維新後すぐに西洋医学を正統医学と定める「医制の発布」というものが行われた。当時の西洋医学は、臨床的な治療(内科的)となると、東洋医学にはるかに劣る水準で、決定的な治療法は強引な「外科手術」という場合が多かった。 

戦時の重度の外傷に対する治療はある程度進歩していたが、当時世界的に恐れられていたのは「伝染病」(チフス・梅毒・天然痘結核など)の蔓延だった。しかし病原菌と感染・発症の因果関係が科学的に立証された後も、医療現場では隔離や殺菌消毒(または無理な外科手術)という手段が主で、ペニシリン抗生物質)の登場は戦後になってからのことだった。 現代では、伝染病の抑止は近代医学の力よりも上下水道などの社会基盤の整備によるところが大きかったと考えられている。

 

 金井先生の未刊の原稿(はじめに)では、一九二三年(大正十二年)九月一日の関東大震災直後、十二歳の野口先生が下痢に苦しむ多くの人々に「手当て」を行ったことが野口整体の始まりだったとあります。震災から二週間以上過ぎ、震災直後以上に衛生状態が悪化し、混乱を極めていたのでしょう。

 そして野口先生は、一九六六年の誕生祝賀会で、「関東大震災の後で、初めて病人に手を当てたのが十六日であった」と述べ、翌年「自然健康保持会(整体協会の前身)」を設立した、という記述があります。

 関東大震災は、日本の近代化にとっても大きな節目となる事件で、復興を境に街並みも風俗も一変し、「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和六年 中村草田男)という俳句が流行った時代でした。

しかし、野口先生は西洋医学の限界と「人間の力を奪う」という問題を震災後に目の当たりにし、自然健康保持会を設立したのです。

 金井先生は『「気」の身心一元論』(はじめに)で次のように述べています。

はじめに

折しも二〇一一年三月十一日、三陸沖を震源とする、東北地方太平洋地震が起きました。

・・・避難所生活を送る人々の様子をテレビで見るにつれ、何らかの医薬を常用する人が、薬が手に入らないことで不安な日々を過ごしているという様子が、私の立場からは目につきました。このような大きな災害は、おそらく太平洋戦争と直後の混乱に次ぐものでしょうが、あの時代、これほどに医薬に頼る人はいなかったと思うのです。是非に必要な方に対して、医薬への依存を否定するものではありませんが、医療が「投薬医療」と揶揄される時代を通じて、医薬への依存性がいたずらに高くなったことも事実です。

 このような大地震に見舞われた日本人として、健康面において、改めて「自身の生命力を拠り所とする」ことを考えてみたいと思います。

 私は、師野口晴哉に出会ったお陰で、この道四十年予、医薬に頼らず生活することができています。このような人生となるには、医薬への依存性が高まってからでは困難ですから、若いうちから、自身で「潜在生命力を喚起する」ことを鍛錬し、「自然治癒力への信頼」を培うことが肝要です。

 そして、このことにとどまらず、「身心を開拓することで人間の可能性を見出そうとする野口整体」を通じて、ことにここ数年、私の人生は深いものとなってきました。