野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口晴哉師の活動と思想-野口整体と西洋医学 2

野口整体と思想

 金井先生は講義の中で「野口先生は(関東大震災で手を当てた時から)どんどん進んでいって、しかし変わらないものと、変わっていったものがあるんです。徹底的に変わらないものと、色々変わって行ったものと両方あるんですね。」(2009年)と語ったことがありました。

 そして、「その変わっていったものについていかなかったというか、いけなかった人達」が、病気を治すことを生業とする「治療師」であった・・・と、晩年の弟子である金井先生は野口先生からそのように聴いていたようです。

 野口先生自身は、関東大震災以後の活動について次のように述べています(月刊全生)。

・・・愉気すること、愉気を利用した調整の方法というもの及び活元運動を中心にした調整の方法を、大体15年くらい続けました。20年くらいかな・・・。そして二十年目位になりまして東京都の治療師会で手技療術がバラバラなのです。戦争の最中でした。これは統一しなければ、いざというときにみっともないという話が出まして・・・いろいろ立場もあったがそういう共通した理論がつかまった。感受性を利用して自然療能の働きを誘導するということがいろんな療術の結論だった。

 私はその当時そういう東京治療師会では心理療法ということになっていた。手でやる人達は僕を委員長にすれば誰の療術がいいということがないから僕に頼むと・・・。

・・・要するに共通しているのは、いろんな技術はあるが、体を整えるという面で共通していると、だから整体療法とか整体術なんていうのがあったけれども、そういう操法、治療術は当人達の使い方でなるのだから整体の操法だけをまず決めようというので、整体操法という名前にいたしました。 

 今でも整体操法の中に治療師たちの名前は残っていますが、海外の手技療法などを含む様々な人々が大勢集まり、実効性を検証していきました。彼らの多くは治療のために自分の技ひとつを一人一流派でやっており、その由来には「夢で神のお告げを受けた」というものまであった、と後年野口先生は述べています。

 西洋医学の解剖・生理の知識は、すでに最高の権威を持つようになっていましたが、当時の病院での医療は今よりはるかに治療効果が薄かったという事情や、否応なく近代化に適応していかなければならない人々の需要もあり、様々な治療法、健康法、養生法が溢れていたのです。

 治療師たちは自分の治療法の正当性を説明するために西洋医学の解剖・生理の知識を使っていました。しかし科学性を主張することで結局大切なものを見失うことになっていたのです(野口整体には科学的(西洋医学的)にも立証できること、矛盾のないことは沢山あるが、解剖・生理学を基盤にしているわけではない)。

 その中で野口先生は、西洋医学の医師ではない民間の治療師たちが共通して「生きて動いて絶えず変化している人体そのものを観ている」ことに注目し、解剖学的身体観ではない「新しい人体観を樹立」しようと図ることで、当時の手技療法を総括する普遍的な視点を確立しました。

 野口先生はこうしてピンからキリまであった当時の手技療術を編集し「手で体を整えて健康を恢復する方法が日本に於て綜合研究され、日本化した技術による療病保健の技術」という「思想」を与え整体操法をまとめたのです。

 しかし、野口先生はその後「社会教育として、健康になる力が在るということを自覚させて、体癖を引っ張り起こす、そういう手段として整体操法を使うこと」に力を注いでいくことにしたと述べています。

 金井先生はこれについて、未刊の原稿では、整体操法制定後「師は、治療ということに対する他の療術家との考え方の相違 ―― 病症の消失を速やかに行なうための治療は、人間を丈夫にするという観点からいうと間違っている=「治すことと治ることは違う」、という師の見解 ―― から、それまで行動を共にしてきた多くの療術家たちと袂を分ちます。」と述べています。

 金井先生は「病症を経過する」という思想は整体の中で最も革命的な思想だと折に触れ語っていました。野口先生は治療を行っていた初期から病症を「再適応の過程」と観る観方(病症を経過する・「風邪の効用」)があって、病症が消えることを目的とするやり方とは相いれなかったのです。それは、西洋医学とも、東洋医学とも、治療師たちとも違う整体独自の思想となりました。

 活元運動も、もとは日本土着の古神道の行法(霊動法)であり、それを野口先生が編集し思想を与えたことで「活元運動」となったのです。野口先生にとって、野口整体にとって、思想の理解が大切であることがこういう点からも伺えると思います。