野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 はじめに1

はじめに― 現代における野口整体の社会的立脚点を定める

一般社団法人 野口整体 気・自然健康保持会

代表理事 金井蒼天

1 野口晴哉生誕百年と大震災― 医療に依存せず「自身の生命力を拠り所とする」生き方を考える

  野口整体を創始した師野口晴哉(1911年9月7日生)は、1926年(大正15年)4月、東京入谷に道場を開き、当時の近代医学では救われない人々のために、本格的に活動を始めたのです。

 それは、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災直後の混乱時、12歳の野口少年が「手当て」を行ったことが発端でした。

 上下水道が壊滅した被災地東京では、赤痢チフスが急激な勢いで蔓延し、下痢に苦しむ多くの人々で溢れていたのです。震災後、愉気法(手当て)に開眼した野口少年は、翌年「自然健康保持会(整体協会の前身)」を設立しました。

 師は、1966年の誕生祝賀会で、当時を振り返り「関東大震災の後で、初めて病人に手を当てたのが16日であった」と、自然健康保持会発足当時からの思いを次のように語っています(『月刊全生』1966年11月号)。 

 野口先生誕生祝賀会

…ともかく修繕したり庇ったりして健康を保とうという方法は人工的の健康を作ろうとして却って自然の健康状態を弱くしてしまうのではないだろうか。余分に護れば弱くなる。庇えば庇うほど弱くなる。人間の体はそういう構造に出来ている。弱ければ弱いなりにその体を使いこなし自分の力で丈夫になって行く。そういう健康に生きる心構えが要るのではないかと思う。病気になると自分の中にある潜在体力をすっかり棚に上げてしまって、一切他人任せにして治してもらおうとする。…健康を保とうとする人工的な方法は結果として体を弱くしてしまう。そういう人工的な健康ではなくて自然の健康を保つ考え方が要るのではないかと、集って来た人達に話をしまして大正十三年の九月十八日に自然健康保持会というのを作りました。…それからずっと私は自然健康保持という面に努力して参りました。

 「野口晴哉生誕百年」に当たる2011年の3月11日、三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震が起きました。

 私が居住する静岡県熱海市は、神奈川県に隣接し、鉄道の交通網としても関東圏に属し、首都圏の端と言うことができます。

 この地域では、三週間ほどで地震直後の混乱が少し治まりましたが、停電など地震後変化した、社会的状態に対して甘受せざるをえない状況でした。そして経済的にも、観光地である熱海市の旅館・ホテルはキャンセルが続出し、関係者の困惑は大なるものがありました。

 当時、東北地方の避難所生活を送る人々の様子をテレビで見るにつれ、私の立場から目についたのは、何らかの医薬を常用する人が、薬が手に入らないことで不安な日々を過ごしている、という様子でした。

 このような大きな災害は、おそらく太平洋戦争中と直後の混乱に次ぐものでしょうが、あの時代、これほどに医薬に頼る人はいなかったと思うのです。

 是非に必要な方に対して、医薬への依存を否定するものではありませんが、医療が「投薬医療」と揶揄される時代を通じて、医薬への依存性がいたずらに高くなったことも事実です。未曾有の大震災に見舞われた日本人として、改めて、野口整体の基本理念である「自身の生命力を拠り所とする」生き方を考えてみたいと思います。

 私は、師野口晴哉に出会ったお陰で、この道50年、医薬に頼らず生活することができています。このような人生となるには、医薬への依存性が高まってからでは困難ですから、若いうちから、自身で「潜在生命力を喚起する」ことを鍛錬し、「自然治癒力への信頼」を培うことが肝要です。

野口整体の理念は、自身に具わる自然治癒力への信頼を拠り所として「自分の健康は自分で保つ」ことです。そして、この「自分の健康は自分で保つ」にとどまらず、「身体(身心)を開墾することで人間の可能性を見出そうとする野口整体(註)」を通じて、ことにここ数年、私の人生は深いものとなってきました。

(註)野口整体は、禅の精神をその思想基盤としている。