野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

人間の自然を保つとは―ユング心理学と金井流個人指導6

人間の自然を保つとは

  人間の中心を頭から肚へ、という整体指導の根本原理と、ユングの自我から自己への中心の移動は、金井先生の見出した野口整体との大きな共通点でした。

 東洋の気の思想では、すべては「気」のはたらきによって誕生し、気の力を受けて成長し、成熟し、やがて衰退し、死に至るとしています。

 身体は気を受け入れる器であり、人間の一生も、成熟に向かうという生命活動に伴って誕生から死へと生命が変化していく過程(生命時間の流れ)と捉え、それが自然と観ています。

 ユングはこのような東洋の「気」の思想に影響を受け「自我から自己への中心の移動」という心の発達過程と心理療法の目的を打ち出したのです。ユングは人格の本質は理性ではなく、情性にあると考えていました。

 西洋では近代科学以前から、人間の中心は胸(中世)や頭(近代)にあると捉えてきました。しかし東洋では、伝統的に人間の中心を「腹」に置き、そこで養う心を「肚」と言い大切にしてきました。

 心とは知性ではなく情性(心情の能力)と「気」の感性で、大人になるとはそれが育つことであったのです(そのため思春期に入ると、心の中心を腹に置くよう帯の位置を下げ、教えてきた)。

 無意識を気のはたらきを通じて感受し、丹田に中心をおいてきたのが東洋、日本の身体観であり、無意識は「裡なる自然」のはたらきで、その「自ずから然る」秩序を活かし、順うことに重きをおいてきました。

 そして、金井先生の個人指導は感情の停滞に注目するものでした。先生は意識の中心は頭にあり、無意識の中心は骨盤にあります。感情はその間(鳩尾)にあり、感情が滞ることで、意識と無意識、心と身体が分離することになると述べています。

 野口晴哉先生が「どんなに世の中に良いことであっても、その人の体を壊すようなことであったなら、又そういう風に育てられた為に、その人が健康でなくなるようであったならば、それは間違っている」と考えたことは以前に紹介しました。

 現代の教育、医療の基にある近代的な人間観はそのような傾向が強く、それを超えるために東洋の智慧を近代に再編して生み出したのが野口整体である、と金井先生は考えたのです。

 野口晴哉先生の1930年頃の文章を最期に引用したいと思います(『野口晴哉著作全集 第一巻』 )。

 意識は総てではない。従つて意識を基礎として組織した現代の体育的運動は、悉くその出発点に於て誤つてゐる。意識を基礎としてゐる結果、随意筋、不随意筋の区別を生じ、総ての体育的運動は皆随意筋の運動にのみ片寄つて終つた。而して随意筋は発達したが、之を養ふの力に乏しいといふ結果を齎らした。又意識に捉はれた結果は、生の要求する運動の適度を無視して、万人に同一の形式を強ひ、又人体の中心を忘れて胸に重きを置き、腹を忘れ、胸を主体とせる形式にのみ走つてゐる。之が為、その目的に背馳して却つて害を心身に与ふるの悲しむべき滑稽を演じつゝある。

 意識を基礎としての運動は、動物性神経を過敏ならしめ、植物性神経を弛緩もしくは過敏に導くの結果、意識のみ過敏に働き、感情は麻痺して活動鈍く、一般に思想が唯物的に傾き、延いては国家国民の行詰りを招来するに至る。自分自らが努力して自分を狭い意識の世界に追込み、徒に苦悩に呻吟してゐるが如き状態にある。思想善導の声高しと雖も、心の働く道は神経系なれば、神経能力を正しくせねば、心が正しく働く道理なし。思想の悪化も心身の病弱も、故なきに非ずである。予は声を大にして、体育改造を高唱し、世人の覚醒を促さんとするものである。

 予の主張する体育は、人体放射能を基礎として行ふ運動によるもので、意識と形式を離れて、各自に適応するだけの運動を為し、呼吸と心との調和を図り、腹腰の力の一致せる処に人体の中心を認める。而して完全なる心身を得んとする。随意筋、不随意筋の区別もなければ、神経系の発達に違和不調を来すことなく、真の彊心健体を獲得し、自然健康を完全に保持して、茲(ここ)に全生の実をあげることが出来るのである。