野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

対立と支配を超える―ヨーロッパにSeitaiを伝えた津田逸夫氏 3

始めに生命がある

 津田逸夫氏は、1の引用文「ヨーロッパ事情」(月刊全生)で「我と物との対立」「人間は自然を支配するものである」という西洋の世界観について述べた後、次のように続けています(引用の省略あり)。

ヨーロッパ事情

…こういうような思想的背景のある所で、気とか、整体とかの観念を理解させることは容易ではありません。日本は、いかに西洋化したとはいえ、いまだ自然と融和するという考えが根強く残っており、古来の種々の伝統によって継承されています。愉気というものも、自他融合が基礎にあって、始めて成立つものといえますが、対立を基盤にしたヨーロッパの精神的風土でこれを受けいれさせることは、容易なことではありません。

・・・我々の使命は、人々の眼を覚まさせることです。始めに生命があるという、この簡単なことに気づかせることです。この簡単なことが判らないために、全人類は右往左往しています。

 僕がヨーロッパを選んだのは、そういう思想の根本問題に触れたい為です。アメリカも一応廻って来ましたが、僕の満足する基盤はありませんでした。

 金井先生は、この「対立」という世界観の特徴について「対立を生み出す大本には、人間自身の「理性」と「それ以外」という「二元」状態がある」と述べています。理性がすべての「上に立つ」のであって、「それ以外」とは分離しているのです。

 それが人間にとって自然なことと言えるのかという疑問は、日本より近代化が早かった西洋で始まり、戦後、東洋の伝統智がより一層求められるようになりました。

 また、津田氏の仰る通り、私たち日本人には「自然と融和する」という伝統が今でもあります。東日本大震災では日本人の世界観が世界に大きく報じられ、賞賛を受けました。

 しかし「病気が怖い」(検査の数値や症状に不安になる)という人は、西洋と同じかそれ以上?かもしれません。手術や薬を飲むことに対する感覚も、確実に変化しています。また、医療の場で薬物の処方量が問題になりますが、「患者側の要求」があることも忘れてはならないでしょう。

 資金・頭脳・技術の粋を集めて科学的研究をしても、病気はなくならないし、患者は増え続けるという現状は、野口先生が活動をしていた時代と変わりません。

 ただ、金井先生が最期の日にICUに入った時のことですが、医師たちの「死」に対する態度が以前と変わったように思いました。

 病症と治療に関しては相違を感じることが多くとも、「死」を前にすると、整体をやっている私たちと医師の距離が近づくような気がしたのです。

 今、病院では、死が視野に入った時点で「何もしない」または「何をするか」の選択が迫られるようになっています。その一方で「死」を遅らせる技術もあり、医師たちも悩むところなのだと思います。

 そういう中で、私たち一人一人が、自分や身近な人の死を迎える前に、「自然」とは何か、また「死」、「生命」とは何かという信念を持つべき時代が来ていると思いました。

金井先生は未刊の著書の原稿で、次のように述べています。

 私たちは普段、この体を自分の身体と考えていますが、目に見えている体を構成する物質はたえず入れ替わっているのです。つまり、目に見えない容れ物である「身体」が生きている自分なのです。さらには、中身が絶えず入れ替わっている容れ物全体を保つはたらきが「生命(いのち)」ということになります。

  創造と破壊を繰り返すことで生きている状態は保たれている。しかし自分と生命との間に分離が起きて、停滞した時、その調整と再統合のために病症が起こる。

「目に見えない」生命が、姿を現す時が「病症」と「死」という時(とき)なのです(誕生もそうですが、これから体験することはできません)。

 まだちゃんと言葉にならなくて、自分でももどかしく、心苦しいのですが、風邪や下痢、痛みなどの「病症を経過する」体験が教えてくれることは、底知れない・・・と、痛切に感じています。