第一章 野口整体の身心の観方と「からだ言葉」一
「気」を集めて身体を観ることで分かる心― 体に潜在意識を観る
今回から、第一章に入ります。これは、整体指導者が「何を観察するか」についての章です。この内容は整体の人間観、身体観の本質にせまるもので、野口整体の著書で観察について詳細に述べる内容は、かつてないことだと思います。
野口整体の身体観
私は、上巻(第一章一 1)で、西洋医学(近代科学)の見方と野口整体(東洋宗教)の観方を、次のように相対的に述べました。
1 病症観には文化的背景がある
世界各地には、様々な伝統的療法や健康法があります。
これらは、各地域で育まれた自然観や生命観の上に成り立っており、生命・病症に対する「考え方・理論の相違」は、各地域の文化に拠っているのです。
そこから生ずる「病症の解釈の相違」によって、異なった姿がそこに出現することになるわけです(=「病症の捉え方」は、文化・教育によって育まれた意識により、認識に相違がある)。
病症に対する捉え方、また向き合い方が異なるということは、同じ症状であっても「別の実体」をそこに観ているということなのです。
例えば、先日Tさんが個人指導で「数日前に、肩の痛みが起き、病院に行き検査をしました」と訴えました。レントゲンでは、頚椎六・七番の間が狭くなっているとのことですが、「痛み止め」を処方されたそうです。
このように、痛んでいる肩の痛みに対する対症療法(註)を行ったのは、西洋医学では「部分の故障」と見ているのです。本人の都合(仕事をする上での支障)もありますが、痛みを悪いものとして排除しようというわけです。
(註)対症療法 病気の原因に対してではなく、その時の症状を軽
減するために行われる治療法。これに対するのが原因療法で、症状や疾患の原因を取り除く(例・胃潰瘍における「ピロリ菌」の除去)。
こういう時、私は肩のみならず、体の全体を観察した上で、どうしてこのような「偏り疲労」が起きたのかと考えるのです(野口整体では身体の歪みを「偏り疲労」と呼ぶ)。
偏りは、必ずというほどに、何らかの「情動」に因っており、内に起きた「感情の動き」が身体上に歪み(偏り)を起こすのです。この時も、本人との対話を通じ、この事情が確認できました。
Tさんの場合、仕事上で不快感を味わって、数時間後の痛みの発症でした。体の鈍い人は情動が起きても、凝りや張り、また痛みとして感じないものですが、Tさんは体が敏感ゆえに、素早く異常が出たのです(註)。
この場合、痛みは「偏り・歪み」が元に戻ろうとするはたらき「自然治癒力」と観ることができます。
(註)朝起きた時、肩の凝りや背中の張りなどを感じて、「寝て疲れた」と言う人があるが、寝ることで疲労が回復し、凝り・張りを感じるようになったというのが本当である。整体の道の目標は「感情制御」だが、現状の制御力を超えた興奮(乱れ)を調整するはたらきが症状(病症)。
本人との対話を通じ、痛みが起きた事情を確認できたことで、彼の生活全体(職業的立場と本人の感受性)をより理解でき、私は、Tさんの「肩の痛み」を、「体の偏りが回復に向かうはたらき」として観ることができました。
ここには、症状(病症)を「故障」と見るか、「生命のはたらき・自然治癒力」と観るかという、大きな視点の相違があります(生理学では一過性とされる「情動」を捉えることで、このような理論が確立する)。
これまで西洋医学しか知らない、また科学的思考・科学的世界観によって教育された人にとっては、先ず、ものの見方・考え方により「身体」が違った姿に見えてくる、ということに気付くことが、野口整体を理解するための第一歩である、と説くのが金井流思想展開です。
これは、同じ風景を見て絵を描いても、人によって違う絵になるということに似ているのです。風景をどのような感覚で捉えているかという、感性の違いということです。
師野口晴哉は、「いのちの真相」という文章の中で「…この世の中は、相対の世界と申しまして、自分の感覚によつて、その感覚を眺めている世界なのです。」(野口晴哉著作全集第一巻 昭和八年 七三頁)と述べています(この場合の感覚とは一般的な五感を意味するのではなく、「対象をどう認識するか」を意味する)。
西と東の世界観(本書で言う「近代科学と東洋宗教」)の相違が基となり、西洋医学と野口整体の病症観の相違(註)となったのです。
この世界に入って一年未満の時だと記憶していますが、師野口晴哉の講義を通じて「人が病気になるとはこういうことか!」と、私の病症観に革命が起きた、あの時の感慨が蘇ります。
師亡き後、私はどのようなことをしていくのかと考え続けて来ましたが、これを表現するため、本章では先ず時代の常識となっている科学のものの見方の枠組みを述べていきます。
なぜなら、西洋医学は、近代科学の「ものの見方(思考の枠組み=パラダイム)」を基盤としているからです。
(註)西洋医学と野口整体の病症観の相違 西洋思想は二分法に拠る「正常と異常」という捉え方をするのに対し、東洋思想は『易経』の象徴・太極図に表されている「陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず」)という捉え方を本とする。野口整体の「病症を経過する」というあり方はこの東洋思想に基づく。
野口晴哉は「人間の体は絶えずどこかが毀れている。そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区分はつけられない」と述べている(『月刊全生』増刊号 晴風抄)。