野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第七章 禅文化「道」としての野口整体― 瞑想法(セルフコントロール)と心理療法 三3

整体指導法の目的「感受性を高度ならしむる」― 背骨で分かる感情のはたらき

 野口整体の目的とするところは「全生」、つまり生命の完全燃焼ですが、このために必要なことを一つだけ挙げるとすれば、それは「感受性を高度ならしむる」ことにあります。

 感受性が高度になることで、それ以前とは外界との関わり方が異なってきます。なぜなら自身が変化したことで、外界の見えよう、聞こえようが以前とは全く違うからです。もちろん自身の内界が変わったからこそ、以前とは違って外界を受け取ることができるのです。

人生観は、要すれば感受性が作り出しているもので、「感受性が人生をつくる」と言いきれるものと思います。

  指導を始めて二年経った頃、ようやく感情がはっきりしてきた人(五十代女性)がいます。

 ある日の指導で、背骨の様子から「どんな驚いたことがあったの?」と聞きますと、久しぶりに実家に泊り、老母と一緒に風呂に入りその背骨を間近に見たそうです。

 個人指導を通じて、自身の「姿勢」に関心を持つようになったこの人は、「こんなに曲がってるんだ」と、母の背中にびっくりしたそうです。

 指導のつい二日前の体験ではありますが、私が尋ねたことに対して、「それはこういうことです」とスッと出てくるし、自分の味わった気持ちをはっきりと表現することができました。

 私が観たこの人の背骨も、彼女が表現したように表情のはっきりとした様子だったのです。健康な人というのは、背骨に感情がはっきり出ているのです。

 ずっと以前のNHKの番組で、禅の高僧一人と一般の人が数人待機している部屋に、十人程の子どもがガヤガヤしながら入って来る時、心がどのように反応するかを脳波計によって測る、というものがありました。

 先ず一度目は、禅僧も一般の人も、子どもが入って来たのに対して似たような脳波の反応を示し、子どもたちが去って行った後、心(脳波)が鎮まって行くのが禅僧の方が少し早い、という程度でした。

 さて、これからが重要なのですが、子どもたちの入退室が繰り返される中で、一般の人はだんだん反応しなくなって行きます。それは、刺激に慣れてしまうわけです。

しかし、禅僧の脳波計においては、いつも同じように反応し、また鎮まるというところに、鍛錬された心のはたらきの「高さ」があることを番組では科学的に立証していました。

 禅では「平常心」という言葉もあり、これを素人は、坐禅を身に付けるとは「平気でいる(=何も感じない)ことだ」などと思ってしまいがちですが、禅の高僧という人達は毎回同じように反応するのです。このようなことを、野口整体では「感受性が高度である」と言うのです。心がはっきりとしない(=何を感じているか良く分からない)から、鎮まりもせず高まりもしないのです。

 鈴木俊隆師は「禅の心とは、初心者の心(Zen mind, Beginner’s mind」と述べています。いつも新鮮に物事を感受し、かつこれに捉われないことを養うのが禅であると思います。

(註)鈴木俊隆(1904~1971)

曹洞宗の僧。1959年渡米し、西海岸を中心に坐禅を指導する。欧米では鈴木大拙とともに20世紀を代表する精神的指導者の一人とされる。

In the beginner’s mind there are many possibilities,

but in the expert’s there are few.

初心者の心には多くの可能性があります。

しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。

 

…日本語では初心といいますが、それは「初めての人の心(ビギナーズ・マインド)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままを保つことにあります。

たとえば、たった一度般若心経を唱えたとしましょう。そのとき、とてもよく唱えられたかもしれません。けれども二度目、三度目、あるいはそれ以上唱えるときはどうでしょう。だんだん、初めて唱えたときの心を忘れていきます。

同じことが、禅の他の修行でも起こります。しばらくの間は初心者の心を保ち続けますが、二年、三年と修行を続けていくうちに、向上するところもあるかもしれませんが、初心の持っている無限の可能性を失いやすくなるのです。

鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』(サンガ)より