(補)『臨済録』で述べられている「天心」について
臨済録を読みまして一番面白かったのは、生まれたままの自然の心の状態で、つまり赤ん坊と同じ心でというが、赤ん坊の心では役に立たないのだ・・・。と。
いろいろ迷い迷って、くだらない妄想などを描いて、そういうものを通してなお、生まれたての赤ん坊の心で居られる者は、自然にある赤ん坊の心とは異なるものがある。
生まれたての赤ん坊には天心などないのです。天心しかないから、天心というものはないのです。
いろいろ人智を尽くし、迷い、なだめ、悪いことをし、計画し、回心し、それでもまた悪いことを思い浮かべて・・・というようなことを経ていって、天心の尊さというか赤ん坊の時の心の尊さが判ってき、それに帰って来得たならばそれは天心である。
天心とはそういうものだと、臨済は別の言葉でそう云っております。大変面白いと思う。
つまり逆に言えば、鍛錬して、しぬいていかなければ、生まれたときの天心の状態を保つことができない。だから大人になって天心を保つのには鍛錬が要る。
何故かというと、いろいろの雑念・妄想は、夏草よりもっと激しく心に生い繁るからであります。そういう中で成長を止めないで、動きを鎮めない。