野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

生命現象には目的と意味がある―風邪の効用 1

生命の意味や目的を問わない科学 

 今日から、少し飛びますが、未刊の本三冊目・『野口整体と科学的生命観』第一章 風邪の効用―「自身の生命力を拠り所とする」生き方 に入ろうと思います。

 ここの内容は、上巻そして『禅文化としての野口整体 Ⅰ 活元運動』という本、下巻にも入っており、ここでは総合的に原稿を見渡しながら進めていく予定です。

 金井先生は下巻第一章の始まりで次のように述べています(一 身体(無意識)に具わる「生命の合目的性」 1)。 

・・・師(野口晴哉)は、西洋近代医学が最も発達した時代に台頭した「気の世界」の達人で、その生命哲学は「気の思想」というものでした。

・・・私は「風邪の効用」という言葉を、師の著書『風邪の効用』に表わされている内容の大本にある、生命の「合目的性」を象徴するものとして位置づけています。

さらに私は、近年の学際的な研究を通じた現在、「風邪の効用」を中心とする師の思想「全生」は、明治の近代医学導入の時代から現在に続く大勢である、西洋医学の機械論に対する目的論と捉えるようになりました。

そして野口整体は、西洋医学の「科学の知」に対する「禅の智」というものであり、近代科学の「外を捉える知」に対し、東洋宗教の「内を捉える智」なのです。

こうして私は、西洋医学の科学性を、野口整体の宗教性に相対化して理解することができました。

野口整体を象徴する「風邪の効用」という思想を、西洋での近代合理主義哲学による機械論的生命観によって失われた、目的論的生命観を通じて語るのが本章です。 

 ここで使われている「目的論(的生命観)」というのは、「生命は外界に対する適応力と抵抗力を備えており、生命活動には何らかの目的・意味がある。主体性と成長・発展に向かう方向性がある」と観る、古代ギリシアの哲学に代表される生命観です。

 生命の「観方」としては非常に普遍的で、「生気論」的な観方が基にあります。生気は東洋で言う「気」のことです。

 金井先生がこの目的論や生気論について考え始めたのは、科学について学び始めたのと同時期で、湯浅素雄氏の次の文章がきっかけでした(『「気」とは何か』)。

 

目的論と科学

…近代科学の歴史は天文学や物理学のような物質現象を支配する因果関係の探求から始まったから、生きるための目的とか意味といった事柄は考慮の対象にならなかった。そこでは、事実がそのようにあるということだけが問題なのである。

このような考え方を生命現象にまで適用するとすれば、生物学も医学も科学であるかぎり、感覚(一般的な視覚のこと)的に認識可能な事実の中に見出される因果関係を明らかにすることだけを任務とすべきである、ということになる。

十九世紀の生物学には、生命体に特有の力が存在することを認める生気論vitalismのような考えもあったが、今世紀には否定されてしまった。生命の目的とか意味や価値について問うことは科学の任務ではない。

近代科学はこのように目的論を否定する考え方(生きるための目的・意味については考慮しない)を前提しているのであるから、当然のことながら、人間の生そのものについても、何の意味も価値も認めることはできない。

科学の立場からみれば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。無論、個々の科学者 ―― たぶんその中の多くの人たち ―― は、人生の意味とか価値とかを認めているであろうが、近代科学は、科学の立場としてそれを認めることは決してできないのである。

 金井先生は上巻第一部第三章二1(科学とはこういうものか!)で、この文章に続き次のように述べています。長いですが一気にどうぞ!

  このように語られている言葉に、「科学とはこういうものか!」とズシンときたのです。

 では、「生命の目的」、その「意味や価値」を問うものはと言えば、それは哲学と宗教に他ならないのです。

 私はこの湯浅氏の文章によって「人間が生きる意味や価値」とは無関係な「科学の立場」というものを初めて知り、「近代科学と東洋宗教」という世界観の大きな相違を知ることになりました。

・・・近代医学においては、肉体(物質)的な「事実がそのようにある」ということを研究するのであって、「健康を保つための生き方という考え方」は、医療では指導されません。こうして、近代と現代における機械論的・客観的身体観(心を切り離して体を捉える観方)が作り出されました。

 これは医療と宗教が分離したのであり、近代医学導入(一八七四年)百五十年後の今日、日本の伝統的な「修養・養生」は、若い人々の知らぬものとなりました(野口整体は伝統に立脚している)。

 この客観的身体観に多くの人々が支配されるようになったのが、現代人の「身心」の問題につながっているのです。

「科学の立場から見れば、人間の生と死は結局のところ、何の意味もない単なる科学的事実にすぎない。」ということは、無機的な「死生観」をもたらすもので、これが、敗戦後「道」を失った日本の、ことに若い世代においては、倫理観を持てなくした要因となっているのです(それで「生き方」が分からなくなっている)。

 この金井先生の文章は、これからから始まる内容の始めとしてふさわしいものです。次回に続きます。