物の学と生命の学
『野口整体と科学的生命観 風邪の効用』で金井先生が著そうとしたことは、先生が野口整体の最も革新的な思想と捉えていた「病症を経過する」という思想、その目的と意味についてです。
そこで持ち出されたのが「目的論」というものですが、金井先生はある塾生に目的論とは何かを質問された時、思想ではなく「態度」なのだと答えました。自分の物の見方、また生きる上での態度(心の構え)が機械論的なのか、目的論的なのか、という問題なのです。
野口晴哉先生は、有名な「遺稿」で、
物の学あれど 生命の学無き也
生のこと説きても 物の学につかえて判らぬ也
これを超えて判る人あれば 我は又説く也
と、述べています(『碧巌ところどころ』)。
金井先生はこの「物の学」というのが機械論、近代科学。そして「生命の学」というのが目的論、野口整体として論じようと挑みました。金井先生は下巻で次のように述べています。
(金井)
近代科学的な自然全般の見方を「機械論」、また「因果論」と言います。西洋において近代以後、このような見方が生物・人間にまで適用されたのです。これに対し、近代科学発達以前に在った生命に対する観方は、古代ギリシア以来の「目的論」でした(風邪の効用1参照)。
現代では、少々のことでも「何かしないと治らない」、「治って来ない」と思い込むようになりましたが、これは科学の影響で、機械論的生命観による考え方です。機械は待っていても治らないからです。
一方、野口整体が基盤とする「自然治癒力」という言葉の背景には、意識されない目的論的生命観がありました。
これが全生思想です。
「自然治癒力」という生命のはたらきに対する「信頼」を確かにするか否かは、現代では、目的論的生命観を理解できるかどうか、にかかっているものと思います。
・・・師野口晴哉は、「健康は自然のもの」(『月刊全生』)で、健康観の問題について次のように述べています(改行あり)。
健康観の問題
…ガスを吸って吐き気がし、悪いものを食べて吐き気がし、大便を溜めて下痢したところで、健康に生きている故の動きなのです。
そういう自分の実際の体の動きを見ながら、いかにして健康を保つべきかなどと考える人は、健康というのが観念にあるのです。「完全なる体」が頭にある。
健康というのは全く病気にならない体だと思い込んでいる。しかし人間の体は新陳代謝をしながら絶えず動いている、変化している。だから完璧な健康というものはないのです。
健康になれば、次にはすぐに毀れてゆく。毀れれば、またすぐ治ってゆく。極端に言えば、十日生きたということは十日死んできたのです。今生きているということは、今死んでいるのです。少なくとも、老いつつ、年を取りつつあるのです。だからどんなにバランスを整えて完璧を期しても、年を取ってくるのです。
・・・絶え間なく毀され、毀れているという中で健康であり、絶え間なく立ち直っているという中で病気であり、そういう動きの流れを保つ力、新陳代謝をしつつ絶えず健康な方向に動いていく力、毀れて死ぬ方に行っている中にも、自分を生かしてゆく力、そういう見えない、訳の判らないものが健康の本体である。
その体の状況を見ないで、健康という、或る固定した形があるつもりで、血圧がどれくらい、胃酸の量がどれくらいと決めている。しかし毀れた中にも治る働きがあり、治る働きの中にも毀す働きがある。そういう中で健康を得ているのです。
そういうことさえ判れば、病気(症状がある)だから病気だ、健康(数値が規定内)だから健康だというように思い込む人は、生きているということを考えていないということになる。
ただ漫画に描かれるような「健康」とか「病気」とかいう図式を鵜呑みにしている。そんなものはあり得ない。あるとしたら、その人達の頭の中に観念としてあるだけで、その観念としての健康を求めようとして、「ああだ、こうだ」と言うのもおかしい。
(金井)
人間の体は、疾病と治癒をくり返しているのです。この破壊と建設は、ともに人が生きる上での合目的的なはたらきというものです。
こうして、自分を生かしていく力に支えられているにも関わらず、「その体の状況を見ないで、健康という、或る固定した形があるつもりで、血圧がどれくらい、胃酸の量がどれくらいと決めている。」ことが、明治以来の西洋医療によって教育された、現代人の無意識的な機械論的生命観なのです。
そして、この「動きの流れをたもつ力、新陳代謝をしつつ絶えず健康な方向に動いていく力、毀れて死ぬ方にいっている中にも、自分を生かしていく力、そういう見えない、訳の判らないもの」についての智が「目的論」という思想に立脚する智なのだと私は考えています。