野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

対象から何を受け取るか―風邪の効用10

生命を見る眼

  野口晴哉先生は、物理学者であるニュートンの見方と、生命を見る整体の観方を対比し次のように述べています。(『治療の書』全生社 原文旧仮名遣い、改行あり)

治療ということ

生きているものと生きていないものは矢張り違う也。ニュートンは林檎の落つるを見て落下する林檎に内在する何らかの力の変化と見ず、他の或るものの林檎へのはたらきかけの結果として見たるも、それは彼が物理学者なるが故也。物理学者は林檎の外側から、はたらきかける力からのみ見れど、林檎自身の動き、即ち熟すという内部の生理的事情によりて、同じ力が同じに働きかけても落つる時と落ちざる時あり。

しかも落ちざりし林檎も時至らば落つるが生きた物の常也。成長し繁殖するは生物の特色也。数学者は量の変るであろうことを想像せず、空間に於ける与へられたる一点は他の一点に関して突然その方向を変へるが如きこと思いもよらず、化学者は一の体に於ける化学的変化を変化せる体外の或るものの作用の結果としてのみ見倣して、一度形成せられし化合物は周囲の要約に変更が生ぜぬ限り永久に存続する筈といえるも、生きたものにありては絶えること無き突発的変化が常態也。

生きたものは慣力も持たず、また物理的平衡にも赴かず、今無事であっても蜜柑を見て泪を出したり、算盤はじいたりする也。怒つたり喜んだりする也。

それ故生命を見る者にありては林檎の落つるを見れば、林檎に内在する力の変化によりて枝より離るることを知る也。その変化の絶えず行われていることを見る也。

それ故生きているものを数学的、化学的、物理的立場よりのみ見れば殻のみ映る也。生命は見えず、生くるものの生きていること判らぬ也。生きているといふこと矢張り不思議也。この不思議感じて治療ということ為す人、治療ということ会するを得る也。

 金井先生は下巻で、この捉え方の違いについて次のように述べています。 

・・・現象の捉え方には二つがあり、まとめると次のようになります。

1 万有引力があるから落ちる

…外から働きかけている力・物理現象(科学・物理学)

→ 機械論・定量的(数値化可能)

 

2 熟して枝から離れたから落ちる

…内に動く力・生命現象(生命の学)

→目的論・定性的(数値化不能な質的側面に注目)

定量的とは、対象の量的な側面に注目した研究であるのに対し、定性的とは、物事の様子やその変化を、数字では表せない「性質」の部分に着目して研究するものです。

ニュートンが、リンゴの落ちるのを見て「万有引力」を発見したのは天才的な偉業ですが、彼はあくまで物理学者であったということです。

  目的論的生命観というのは「考え方」の問題ではなく、その人のまなざし、感受性、関心の持ち方如何によって、観えてくるものです。

 玄侑宗久氏の『実践!元気禅のすすめ』という本には、15,000個の実をつけた「ハイポニカ・トマト」を育てた野沢重雄氏の話が出てきます。

トマトを育てる上で、野沢氏は水と栄養をふんだんに与えるだけではなく、「一度たりとも、これ以上大きくなっては困るだろうか、といった不安を、トマトに感じさせないことが大事だ」と語ったとのことです。

 私はこれを読んで、トマトに対する潜在意識教育のようだと思いました。育ってくる過程で成長を阻害するような不安や不満に基づく潜在意識がある人は多くいます。

また、そうでなくとも日常的に不快情動が潜在化すると、思うこと、感じることが悪い方、暗い方へと向くもので、それが実際に自分を限界づけてしまうのです。

禅というのは、感情も想念もない無心の身体になることで、自由な自分を見つけることを目的としています。整体も、感受性を高度ならしむることで、生きる領域を広げていくことが目的です。

こうした行を通じて、次第にひらけてくるのが目的論的世界観というものなのだと思います。