野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

ユングの心的エネルギー論と「気」の身体観―風邪の効用 11

ユングの「心をエネルギーとして見る」観方と野口整体の気の身体観

 風邪の効用 9 の終わりで、

 人間は誰しも潜在的可能性を有しています。そして、常にその可能性を実現しようという運動の途上にあり、変容し、成長し続けようとするのです。元より(ユングの思想を湯浅氏、河合氏を通じて知る以前から)私は、師の全生思想を、「可能性の実現」と捉え、この道を精進してきました。

 という金井先生の文章を紹介しました。

 今回から、下巻で論じているユングの目的論的無意識観について、お話していこうと思います。

 金井先生は中巻『野口整体ユング心理学』で、ユングフロイトの無意識観の相違について次のように述べています(下巻第三章「ユングの目的論的無意識観」にも使用)。

 フロイトは心を「機械」に喩え、その奥に抑圧された無意識が溜まっているとイメージしました(これが静的という意)。その抑圧がなぜ起きたかというと、意識(理性)が道徳的に判断して悪いと思ったことが原因で、これが無意識を生んでいると考えたのです(過去に抑圧した欲望と感情が無意識)。

一方ユングは、心を「水の流れ」に喩え、心を「エネルギーの流れ」として観たのです(これが動的という意)。意識は無意識を基盤にしており、無意識が意識化されていくことで意識が発達すると考えたのです。

・・・そして、この無意識のエネルギーの流れ(心的生命活動・意識しない心のはたらき)がどういう方向を向いていて、どれぐらい強いか(関心や価値観がどういう方向に向いていて、要求がどれぐらい強いか)と考える見方を「心的エネルギー論」と呼び、フロイトの「機械論」に対して、ユングは「目的論」を主張しました。

 

 心をエネルギーの流れとして見る、というのは、単純に言うと何かを「したい」と思い、注意がその方向に向かっているということで、そこには方向性と強度があります。行動に顕れる前の心の動きををエネルギーとして理解することができるのです。

 フロイトの「抑圧理論(快感を求める本能的欲求を意識が抑圧することで、無意識のエネルギーが身体に滞留する)考え方では、意識の抑圧がなければ、無意識の中には意識が制御不能となるようなエネルギーはないことになります。

 しかしユングは「無意識が単に過去のものの倉庫ではなくて、未来の心的な状況や考えの可能性にも満ちている」、「それらは、心の暗い深みから蓮の花のように成長してくるもので、潜在的な心の最も重要な部分を形作っている。」(ユング『人間と象徴 上』)と考えました。

 無意識は心の源泉であり、そこから心的エネルギーが水のようにこんこんと湧き出していると捉えたのです。

 金井先生はこのユングの「心を流れと捉える観方」に共感し、自身の身心観について次のように述べています。

 ユングの、心を「流れ」と捉える観方(心的エネルギー論)には大いに賛成です。おそらく、ユングは「気」が観えていたものと思います。観て、触れて、〔身体〕の変化を見届けてきた野口整体の私も、同様に、心を「流れ」と観てきました。

 身心がエネルギーに充ちているとは、感情の滞りがなく、気の流れが良いと集約できるものです。

 身心の動きが悪い時は、流れていないと観え、最も悪いのは「固まっている」と観えるのです。

 この固まり、情動によって生じた「硬張り」ですが、それは陰性感情によるエネルギーの滞りであり、これが、活元運動を通して流れると、心が一新するものです。

 そしてこのように活元運動が出る様は、水が低きに流れるように、「体の自然(じねん)」を感じさせます。

 こうして主体性を取り戻すことが、整体指導の目的とする処です。

  続きます。