野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

ユングの 自己実現と野口整体の全生―風邪の効用13

ユング自己実現野口整体の全生

 今回は、ユングの「自己実現(個性化の過程)」を、野口晴哉先生の全生についての文章を通じてお話したいと思います。では、野口晴哉先生の全生についての引用文をまずどうぞ(野口晴哉『風声明語2』初出は昭和二五年十月)。

もっともっと

 真直ぐ進めば良い 右顧左眄は要らない

 自然に生きる道は いつも一筋だ より良くなる より良くなる 向上への歩みこそ 吾らの裡にいつも活き活き動いている自然の要求である。

 生きるとは より良くなることだ 生命は絶えず伸びる これに従うことだけが生きる自然の道だ

 より良くなる可く進む道 途中で落伍するより一歩でも更に進むものはより良い たとえ這ってでも良い 更に進むならそれはより良い そしてそれは尊い

 

 小細工は要らない ただより良くなる

 伸びれは雷にうたれるかもしれない しかしより伸びるのだ 雷が怖くないのではないが 伸びようとする裡の要求は抑えることができない より良くなる しかし完成される日はない いつになっても どんなに良くなっても もっと良くなりたい そしてこの要求のつづくうちは生命は撥刺としている 生きていることは それ故に面白く楽しい

 

 自分で縮まねば 自ずから伸びるものだ 裡の要求に生きておれば いつもすらすら伸びる 伸びるのは自然だからだ 生命は自然のものだ

 裡の声を聴き 裡の声に従え 外の声に惑わされるな いつも裡の声の聞こえる心に生きていなければならぬ 外の声に耳を傾け 心を騒がしていると 裡の声は聞こえない ただ裡の声に生きていることだけが生きるものの歩む自然の道だ 迷うことはない

 欺くの如く生きるものだけに生命は輝くのだ

 精神科医であったユングの患者たちの多くは、30代後半以降の人で、これまでは一定の適応能力のあった人たちでした。しかし、この年齢になって、現在を主体的に生きるエネルギーが失われ、「行き詰まって」いたのです。

 彼は、患者が「なぜ、現在に適応できていないのか」に焦点を当てました。患者たちは、本来意識の方に流れてくるべき心的エネルギーが、無意識に滞留していることで、妄想や情緒不安定などさまざまな症状に悩んでいました。

 そしてユングは、このような状態は無意識の問題というよりも、意識の無意識に対する態度や構えの問題だと考えました。

 野口先生の引用文にあるように、意識が「外の声に耳を傾け、心を騒がしている」おり、「裡の声」が聴こえなくなっている(または切り捨てている)ということです。このような偏った意識のあり方で適応してきたために行き詰ってしまうのです。

 こういう場合、無意識は、意識へ向かう心的エネルギーの流れを取り戻すために、病症を起こしたり、問題に直面するような方向に向いてはたらくようになります。

 無意識は常に自己実現へと向かおうとしており、結果は見えなくとも、それに沿うのが「自然な生き方」というものなのです(結果を求めず過程を歩む)。病症はこの流れに背いた自我(意識)のあり方を変えようとするはたらきだとユングは考えました。

 これを無意識の「補償機能」と言い、湯浅泰雄氏はこれについて次のように述べています(『宗教と科学の間』)。

 ユングのいう「補償」の作用は身体における自然治癒力に当るような心の作用です。生きてゆく上で目的にかなった方向を教えるはたらきが、人間の心身には潜在している、ということです。つまり、人間(あるいは生命)の生き方に対して適切な態度をとるように教える働きが、無意識としての「たましい」Psycheの内部には本来備わっているというわけです。 

 意識・無意識を合わせた心全体の中心となるのが「自己(Self)」というものです。

 ユングは、その人の歩むべき自然な生き方は、無意識の中に最初から含まれており、意識と無意識の全体性が保たれることで自己実現の道を歩み、人格が発達していくと考えていました。これが前回の無意識の目的論的観方ですね。金井先生は「土から新芽が顔を出すように、無意識から可能性が萌芽する」と表現しています。

 それを、個が確立する=個性化の過程と呼んだのです。

 金井先生は下巻(第三章 二)で次のように述べています。

自己実現」は、おそらく、ユングがあまたの臨床例を通じて、また年齢とともに高まっていったその「霊性」により、「人間の生きる意味」について深く考えていった結果、後年における「心理療法の目的」としたものであったと思います。

 これは「指導・教育」というものであり、治療から教育へと、彼自身の心理療法家としての「人間完成」を達成したものと理解しました。ここには、治療家として出発した師野口晴哉の人間教育の指導者(思想家)へ、という五十年の歴史と重なるものがあります。