野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

野口整体と科学 第一部第三章 近代科学と東洋宗教の身心観の相違 一3

 昨年、初めて緊急事態宣言が出た当時、私はNHKの新型コロナウイルスについての特番を見ました。その中で、司会のアナウンサーがパンデミックの渦中で起こる、不安や恐怖などの感情をどうしたらいいのか?と、緊急時下の社会を研究する学者に質問するシーンがありました。

 アナウンサーは「他者がパニックになっている時、どう治めたらいいのか?」ではなく、「自分の感情をどうしたらいいのか」をまじめに質問していたのです。

 私はそれを見て、「自分の感情を自分で鎮められないことが、ここまで一般化しているのか」と改めて驚いてしまいました。(「質問する相手がちょっと違うだろう?」という気もしますが。)

 しかし、わが身を振り返ってみると、私も整体を学ばなければ、理性的に自分に言い聞かせたり、何かで気晴らしするという程度で「感情」を何とかしようとしたでしょうし、心を体の中心に据えることなど思い至らなかったでしょう。

 皆さんはどうでしょうか?それでは今回の内容に入ります。

 3 科学は身体性から離れる― 身体に「私」というものがない現代

  この女性は、大学を優秀な成績で卒業し、なお科学の王様と言われる物理学、それも天文物理学という近代科学の基礎となる学問を得意とした人です(天文物理学者のガリレイは科学的手法の開拓者の一人)。

 このこと自体は良いことであれ、他の人間教育というものの教養や「身体性」というものが大きく不足しているのです。

 勉強が良く出来た人には「私が頭にある」傾向が強いのですが、学校で勉強を良くした、しないに関わらず、現代では「私」は身体の中心には無く、「私」は頭となり、さらには「私」がどこにあるのか分からなくなっています。

 近年では、自分のことを客観視するだけで、「自分と対話することが出来ない」、主体的に「自分の問題に取り組むことが出来ない」という人がさらに増えています。

 これは意識が、身体から離れた「理性」に偏って発達することによる問題なのです(「理性」だけが私となり、感覚・感情は無意識化し、体は「私」ではなくなった=感情と身体の関係、とりわけ不快情動に対する抵抗力が皆無)。

『病むことは力』終章で「日本の身体文化を取り戻す」としたことは、今では「近代科学」に対して、「東洋宗教」文化を取り戻すことという意味である、と断言できます。かつての「肚」を具えた日本人には、このような問題がなかったからです。

「近代自我」が発達した欧米人は、私とは理性であって、私は「頭にある」ものとはっきりしている(=心身二元論)のですが、明治維新以来の百五十年の間、西洋近代文明の影響を強く受け、敗戦後は、さらに「腰・肚」文化(「道」)を喪失した現代の日本人においては、「私はどこかにある」となったようです。

「型」という文化を失い「腰・肚」が作られていない現代人は、身体に「私」というものがないのです(伝統文化は身心一元論であり、身体の中心は腰・丹田にありました)。

 もちろんその他、人間関係の中で個人の健康状態も左右されるものですから、この女性が、先に書いたことのみが原因で難病になったとは言えないのですが、「自身の全体性=身心の統合」、身心統一についての教養を持ち、修養すること(調身・調息・調心)が、この人にとって是非にも必要だと感じた次第です。