野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

身体性を高める日本の「型」の文化―気の思想と目的論的生命観19

正心・正体=整体・感受性を高度ならしむる

 刺激に対する反応のあり方を感受性といいますが、感受性は体と心の状態によって、鈍くなったり敏感になったりします。

 これがきちんとはたらくように身心を整えるのが「整体」で、「整体指導の目的は感受性を高度ならしむることにある」と金井先生はよく言っていました。これは、野口晴哉先生が段位取得の試験に出した問題の一つであったとのことです。

金井先生は上巻『野口整体と科学』で、

 

野口晴哉が提唱した「整体」、即ち「感受性を高度ならしむる」ことは、東洋宗教が求めて来た「正体・正心」の現代的な顕れなのです。

 

と述べています。

 意識のあり方を身体の状態を通じて変化させることで、感受性そのものを変えていくのです。体を通してはたらきかけるのは、感受性とその奥にある心、潜在意識であるというのが野口整体の基本にあります

そして、はたらきかける側も、受ける側も、それを理解し、瞑想的な意識を養う必要があるのです。では、今回の内容に入ります。

 

(金井)

 日本の身体文化における「身体性」についてです。

「身体性」というのは、「性」という言葉がついていることに意味があります。それは、身体の有り様と「感覚」や「感情」のはたらき、こういったものが全く一つなのです。

 身体が歪んだように感覚や感情もはたらき、整っているように感覚や感情(感性)がはたらくのです(身体性は潜在意識のはたらきであり、現在意識のはたらきを方向づける)。

 このことを、師野口晴哉は「人間はいつでも心身一如」と説きましたが、「型」は一定の意識のはたらきを発揮するための身体文化でした。

 私は、第一章三(下巻)で次のように述べました。

 

正体・正心(正気)による知覚・認識

 儒教の教典である四書五経の一つ『大学』には、「心ここ(焉)に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず(心が「ここ」にないうわの空の状態では、見ても正しく物を見ることはできない、聞いても正しく音を聞くことはできず、食べても本当の味を知ることはできない)。」という言葉があります。

 儒教では、人間の知覚・認識を「機械的な仕組み」とは考えず、「『正心・正体(正気)』によってこそ、初めて物事を正確に知覚し、正しく理解することができる」と教えていたのです。

 ここには「身体性」を重視した、ただ目で物を見るのではなく、ただ耳で音を聞くのではなく、ただ舌で味を味わうわけではないという、儒教の『道徳的世界観』が存在していたのです。

 これを師野口晴哉は、「見る・聞く・味わう」ことを「気を集めて」行なう(=身心統一によって感受する)と言っていたのです。

 また、仏教の「八正道」においても、「正見(正しく物事を見る)」・「正思(正しく考える)」・「正語(正しく語る)」・「正業(正しく行為する)」など説かれており、これらは「正身(正しい体と心=正気)」によって為すことができるもので、仏教の基盤にも「身体性」があるのです。

(敗戦以前には、儒・仏教を基盤とする「体育・徳育・知育」が教育の伝統であったが、以後失われた。)

本書を始めとする「科学の知・禅の智」シリーズが意図する最も大切なことは、近代科学と東洋宗教では「心」が違うということです(敗戦後の科学至上主義教育の結果、日本の伝統的な心は失われ、理性(頭)のみ発達した)。

・・・科学的な教育によって発達する心(意識)と、禅的修養によって体得する心(意識)を相対的に理解する、これが野口整体を身につける上で肝要なことであり、「科学の知・禅の智」と、私が説くのはこれ故です。

 

 日本では、このような東洋宗教文化が結晶して「道」となっていたのです。道を体現するための体を「型」で養い、「型」ができている体を「自然体」と呼んでいました。これは、日本人が育んできた「身体智」というもので、「人間の自然」を保つためのものでした。

 近代科学の機械論的見方では、人間の知覚・認識とは、感覚器(視・聴・嗅・味・触覚を司る器官)の機能や「理性」によるものであり、これは、儒教や仏教の「身体性」とは、大いに異なるものです。

 日本人のあるべき姿としての「型」の基本は、日常生活での正坐にありました。

「型」は、中心にある力を自覚することで四肢末端の余分な力を排し、「身心の動き」を統一するものです。「型」の文化とは、この統一力を用いて生活することでした。

 正坐においては、この型の意味が顕著に表れるものです。それは、〔身体〕(=身心)が少しでも偏ると、昨日出来ていた正坐がきちんと出来なくなるからです。

「型ができる」とは、「主体的に自己(中心)を把持する」ということで、体の持ち主がその中心力(=潜在能力)を使うことができることです。

 また、「型ができる」と身体感覚が高まるので、自分の心の動きに敏感になります。なぜなら、心が動いたように体が動くからで、その体を一定の状態に保とうとする(丹田を保つ)行が型だからです(型が身に付くと「無心」を体得することになる)。

 ユング心理学で言う「自我」は体の持ち主であり、「自己」が中心力ということになります。

「型」を身に付けることは、背骨を軸に、頭と骨盤が一体化した状態になります。そのような身体がもたらす「無意識と統合された意識」のはたらきは、自身の内側にも、外界に対しても調和と秩序をもたらすのです。