野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

特別編 2009年 春公『科学と宗教』 おわりに

野口整体と現代

 実は、「気の思想と目的論的生命観」の括りとして考えていた原稿を入れ忘れてしまったので、ここで差し込ませていただくことにしました。これは2009年に行われた春期公開講座の教材『科学と宗教』の教材の「おわりに」です。

 申し訳ありません。

 

野口整体と現代

  今日の社会において、「生き方を教える道がなくなった」のは、敗戦を経たという日本の事情 ―― 敗戦後は過去が否定され「道」が継承されなかった ―― と思っていましたが、本作りのため、昨年勉強を深めてきましたところ、これは科学全盛の時代を経た世界的な様相であることを知りました。

 

 戦後変化した「日本人の心」については、野口先生を通じて身につけてきたのですが、実は太平洋戦争も含め、明治政府の欧化政策という事情 ―― 西欧列強の植民地主義に対抗するもの ―― や西洋の「科学」文明、これらの歴史を辿ることで、現代日本人の「心身の問題」を理解することができると知った次第です。

 野口先生が「正しく坐すべし」(二部で紹介)の中で、「今や日本の危機なり」と西洋化による「心身の問題」点を提起されたのは一九三一年のことですが、師の生涯は「近代知」以前、またそれ以外にこのような「智」があったこと、またあることを世の中に知らしめる活動であったとも言えます。

 西洋文明である「科学」というものを、井深大氏に始まり石川光男氏、河合隼雄氏を通じてユング、そして中世、キリスト教にまで勉強が進みました。これは、私が師とともにあった十年の内に、意識せぬまま師の心をしっかりと受け継いでいたこと ―― 明治以来の西洋化が日本人に与えた負の影響 ―― を今になって強く意識するものでした。

 そして、野口先生より三十年以上前に生まれたユングは、すでに二十世紀初頭には西洋文明社会の底層に存在する問題点を的確に把握していたのです。

 河合隼雄氏は「現代とユング心理学」について次のように述べています。

河合隼雄ユングの生涯』

はじめに

 現代は不安の時代であると言われる。わが国を例にとってみても、親子、夫婦などの家族関係のあり方に確固とした規範を持たぬために、家庭内暴力や離婚などの問題が急激に増加している。

 ヨーロッパ中心主義の崩壊などということを述べたが、そのために、われわれ日本人も中心喪失感に悩んでいる。つまり、中心となる規範が不明なのである。

キリスト教に対する疑問ということから、すぐに仏教やイスラム教を世界の中心に据えて、現代の不安が解消されると考える人は、数少ないことであろう。

仏教国であるわが国において、いったい何人の人が仏教によって安心立命しているであろうか。安心立命を古臭く感じる人には、アイデンティティという用語を用いると納得されるであろう。現在における社会変動の急激さは人々のアイデンティティを揺さぶるのである。

このような現代の不安を先取りして、ユングは癒しがたい内面の亀裂と不安を体験するが、そこから、個性化の過程という、一つの解決の道を見出してくる。それは単純に考えられるような「救い」を与えるものではない。逆に悩みを深めるものとさえ言うべきかもしれない。

しかし、現代の不安におびえるわれわれに対して、ユングの心理学は、われわれが不安から逃れることなく、それと直面していく勇気を与えるものである。

  金井 私が「整体指導者」として認められたのは、先生が亡くなられる前年のことですが、―― 整体技術者から「指導者」になるのは技術段位が四段位以上 ―― この当時は整体協会の整体指導者という立場でした。そしてこの整体協会のについてですが、「闇夜に月」というものです。

 確か聞いた話の記憶では、整体協会設立(昭和31年・1956年)当時、柳田先生が「月ではなく太陽がいいのでは」と進言されたようですが、野口先生は「いや、月なのだ」と言われたということです。

 こんな話を聞いた私は、「人間の心・無意識」に対して、「夜の月」のように「心の闇」を照らすもの、としての協会の立場を徽章に込められたのだなと思いました。確かに「人間の心」は昼間の太陽が大地を照らすように見える必要はなく、「夜の道も、月が出ていれば歩いて行くことができる」、それは夜の海を照らす灯台ほどの明るさでなくともよい、のかも、と当時想ったことを思い出します。

一、「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」

二、「気のしっかりした人がいなくなった」

三、「このままいくと頭のおかしい人が増える」

四、「いきなり刺す人が出てくる」

 四十年近く前に、このようなことを言われた野口先生に、教育を十年受けた私は、今、本作り ―― それは、この時代に私としての野口整体を世に知らしめるもの ―― を通じて「科学」、「西洋とキリスト教」、「東洋宗教」、そしてこれらの歴史にまで考えが及ぶようになりました。

 私の職業的歴史観は、長い間、敗戦以後または明治以後の日本にまるものでしたが、「科学」に着目し、昨年より学びを深めることで、一気に歴史観が拡がりました。

 それは、「科学」を哲学的に捉えようとすることは、西洋近代(十七世紀~)の合理主義について考えることであり、それは勢い、西洋とキリスト教の長い歴史にまで関心が及ぶようになりました。

 こういった方面にはこれまで全く門外漢であった私には、半年や一年の勉強では及ぶことができないことは十分承知しています。

 しかしながら、「感受性」を通じて「個人」を理解する、という「野口整体」を学ぶことが拡大されて、今、このようなことを考えることができているものと思います。

その土地の気候風土や歴史により、そこに住む民族の自然観・世界観が形成され、世界観が宗教を創るものと考えられます。野口整体的に表現すると、世界観の基盤にはその民族の「感受性」があります。哲学や宗教を学ぶことは、そこに住んできた人たちの「感受性」について理解するため、その「精神史」を学ぶことでしょう。

 こういったことに、今取り組むことができるのは、学問に対する姿勢(感覚や直感)を学んでいたことが基になっているものと、改めて野口先生の講義における、「潜在意識」を対象としての何気ない話し方の中に、こういったことを今考えることができる「種」を、私の心の奥深くに蒔かれていたことを痛感しています。