西洋医学と野口整体の対比
二で紹介する上村氏との対談(2006年10月18日収録)は、次のようなところから始まったのです。
金井 今日は先ず、以前に少しお話しした「科学と哲学と宗教」というところから始めたいと思います。
上村 西洋医学というのは、科学的な物の見方が中心なんです。科学とは目に見えるものを中心として、現実を認識していくやり方です。
金井 視認できるもの、ということですか?
上村 そうです。「記号化」、というように言えると思うんですけど。
金井 記号化できるもの?
上村 文字とか画像。数値もそうなんですけど、現実をある記号に置き換えて、目に見えるようにピン留めするようなかたちにして、分かるようにするやり方が「科学」。
科学は、記号の中でも特に数値化することによって現実を捉えようとする。哲学は「思弁」。これは、言葉による論理的な組み立てによって現実を捉えようとする。
金井 ともに現実を捉える、ということですね。
上村 そうです。それに対して「宗教」の方は、「直感」で捉える。科学の記号化は、即ち「思考」と言っていいと思いますが、宗教は、そういうものを介さず、自分の中に入ってくる「感覚」で、ダイレクトに現実を捉える。
金井 「感性」、という言い方をして良いですか?
上村 良いと思います。
金井 宗教は現実の、記号化できないものを感性で捉えるという中に、「直感(感覚によって物事を捉える)」とか、人によっては「直覚(直観・瞬間的に物事の本質を悟る)」がはたらいてという、こういう言い方で良いですか。
上村 記号化されるずっと以前の、ものの把握の仕方って、根本的には「直感」しかないと思うんですよね。最初に直感で何かを捉えて、それを何かの記号に当てはめる、という過程を人間の中で行うことが、物事を認識するということだと思います。
ですから、記号化したものを扱う科学的なやり方というものも、原理原則以前を直感が支えている。科学者や哲学者も感性をちゃんと持っている人は最終的に宗教的になっていく人が多いですね。
金井 最初は直感、そうなんですね。野口先生は「僕は直感が正しかったから五十年やってこれた」と、晩年に言われていたのです。
上村 本来の意味での宗教というものは、生(なま)の現実そのものズバリをダイレクトに心に入れる、そういうものと思うんです、というお話を以前にしていたんです。
金井 これによると、私のやっていることは、つまり、もっぱら宗教ですね。
こういう意味において、「野口整体は宗教である」と、こういうふうに書いて、本にしていいかどうかはまた別の問題だけど(笑)。一般の読者が読んだ場合は…。
上村 書かない方がいいと思いますね(笑)。
金井 ここでは、「宗教的な野口整体」と「科学的な現代西洋医学」、という対比をしまして進めてみたいのです。
「本にしていいかどうか…」とあるのは、『病むことは力』に続く二冊目を著そうと、2006年5月8日以来取り組んで来ていたその時期であったからです。
私はこの対談当時(2006年10月18日・当時58歳)まで、「思弁」と聞いても、その意味が確かには解っていないほど、科学と哲学、そして宗教という区分について不明確な知識の状態にありました。
しかし、こうした機縁により、やがて(2008年4月から)西洋医学との対比から、その背景にある「科学の哲学性(科学哲学)」を学ぶことになったのです。それは、野口整体を諦観し(本質を見極め)、その「社会的立脚点を定める」という強い欲求からでした。
こうして、この対談から十年以上を掛け、私は上・中巻を著すことができました。