「生活している人間」を、手と目で観る野口整体
中村雄二郎氏は、科学の発展に伴う視覚の特化がもたらす「切断(分離)」(註)と、全体性を捉え「結びつける」はたらきを持つ触覚について述べています。この内容は、すでに上巻で紹介しましたが再考してみます(『哲学の現在』Ⅱ感覚と想像の働き)。
(註)感覚を排除した科学で唯一使われているのが視覚。
二 見る・聞く・触る
…近代世界のなかでは、一見したところいかにも見ることが重視され、大きな意味をもっているようであるが、その見ることはかなり特殊なかたちのものであった。見るものと見られるものが引き離され(対象化・客観化)、…視覚だけが独走したものであった。
…五感のうちでとくに触覚は、視覚ともっとも対蹠的(全く正反対であるさま)な直接接触の感覚として、見るものと見られるものの分離状態をなくす上で大きな役割をもっている。聞くものと聞かれるもの、嗅ぐものと嗅がれるものとなると分離は、いっそう少なくなるにせよ、それでもありえないわけではない。しかし、触るものと触られるものとの間では、主客を対立させる分離は起こらないからである。
野口整体では、さらに進んで、この人の身心が「このような状態にある」ことと、「背骨がどのようになっているか」の関係を観察します。
先の例に出た切迫早産について調べてみますと、西洋医学的には種々の原因が挙げられていますが、私が観た一例では、「途中で子どもが降りてしまうので、出産まで子宮口を縛っていました」という人の腰椎三番が、力のない状態にありました。
野口整体では、腰椎三番の力と、「子宮の能力」の関係を観ています。もちろん、心の安定と腰椎三番は相関的な関係にあり、このような身体の状態と、この人の生活における「人間関係」に因る心の状態を観、「子宮」に関わる全体性について考えようとするものです。
医師の中にも、看護学的な理解を持って患者に接している人も存在すると思われる中、「画像診断」に象徴される「科学性」の発達は、「患者の病症を病理学的にのみ理解する」という方向性をさらに強めるもので、ますます「生活している人間」との関わりを切断するものとなっているのです。
(補)全生思想
中巻冒頭にある「全生思想」を紹介します。
(金井)
野口整体で云う「整体」とは、全力を発揮して生きるための「身心」のあり方です。
この「心」を説くのが「全生」思想です。
全生思想
師野口晴哉は十五歳で道場を開き、治療家として本格的に出発しましたが、その当初からの「全生」思想を通じ、人が全生するため、「心と体」を育てつつ導くという「野口整体の体系」を創始しました。
全生とは、自然健康を保持し(整体を保っ)て生命を全うすることで、野口整体の基盤となる全生思想は、師野口晴哉の死生観から生まれたものです。
師は、「全生」と題した次の二つの文章(『偶感集』全生社 一九八六年)で、死と生という対立概念を統合する「死生観」を表し、全生思想の端緒を開いています。
死も生も、科学では扱われていないのです。
全生
一日生きたということは、一日死んだということになる。
未だ死ななかった人は全くいなかったということだけは確かであるが、その生の一瞬を死に向けるか生に向けるかといえば、生きている限り生に向かうことが正しい。生の一瞬を死に向ければ、人は息しながら、毎秒毎に死んでいることになる。
生に向けるとは何か、死に向けるとは何か、この解明こそ全生のあげて為すことである。
野口整体の理念は、整体を保って全生することです。
整体とは「良い空想ができる」身心で、何かを実現しようとする「意欲」を有している身体です。
このような身心に導くのが整体指導です。
全生
全生に生ききるとは 自ら生くる也 他に依って生かされ息している人はいつになっても全生しているに非ず 蝶が一(いち)夏(げ)で死し 猫が二十年で死し 松が千年で枯れても 等しく全生したる也 人間の全生 時の長さに非ず その一日を生ききることに全生はある也
力は使うことによって増す也 力を使うこと惜しむ人 全生の道を知らず 十のこと為すに 五の力にて為すより五十の力をもって為すこと 全生の道也 成否の問題に非ず ただより多くの力を費やして生くる可し 費やして減ることなきを知る者 いつも活き活き生くるを得 斯くの如きを全生という也
全生とは「生の死に向かいつつある」一刻一刻を、全力を以て生きることであり、そして、それは「内在せる可能性」を十全に活かして生きることによる「生命の完全燃焼」とも言いかえることができます。
溌溂と生くる者にのみ深い眠りがある。
生ききった者にだけ安らかな死がある。野口晴哉