野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」二1

 今日から、第二章 二 江戸時代の気の医学『養生訓』―「気」を本とした日本古来の健康観 に入ります。

 立川先生の江戸時代の気の医学の内容はこれまでも取り上げてきましたが、中巻では多くの頁を割かれていますので、そのまま載せていきます。

 「かくれたもの」を観る野口整体と養生の心―「気で観る身心観」から捉える健康と病症

  江戸時代までの医学は「気の医学」と呼ばれ、伝統的な「気」の思想を基盤にしたものです。

 師野口晴哉は、貝原益軒の『養生訓』を「べしべからずが多すぎる」と評していますが、それは「食べ合わせ(註)」など、生活上の禁忌(してはいけないこと)についてのことです。

 これには私も同感ですが、『養生訓』の基盤にある「気」の捉え方、また「身をたもつ」という心得は、「整体」という思想と共通するものです。養生の意味が変わってしまった現代(養生とは本来、病後の摂生ではない)、これらを知ることは、野口整体を理解する上で肝要なことです。

(註)食べ合わせ合食禁)「鰻と梅干」など、一緒に食べると体に悪いとされる食材の取り合わせ。『養生訓』には多くの食禁が記されている。

 読売新聞に掲載(1980年8月25日)された立川昭二氏の『風邪の効用』書評が、『月刊全生』(全生社 1980年10月号)に紹介されたことがありました。立川氏は野口整体の世界を、現代文明に相対化し捉え、極めて直截簡明に表現されています。 

病気もからだの自然な経過

 私の山の家のある八ヶ岳南麓のやせた土地の近くにも、農薬を使用しないで高原野菜をつくっている実験農場がある。現代は、五千年来の自然農法が実験と呼ばれる奇妙な時代である。

 人間の世の中も同じこと。医療が高度に技術化・機械化するなかで、自然出産とか自宅分娩が話題となり、催眠療法東洋医学にうちこむ医師たちがあらわれ、いっぽう管理社会で肉体が侵されつつあることへの恐怖からか、ヨガや太極拳、自然食品や自己訓練法など、自然回帰的な健康づくりが大衆レベルでブームとなっている。

 そんな混迷のさなか、野口晴哉「風邪の効用」(全生社)という本をフトした機縁で手にし、健康とか病気にたいする通念を根底から覆す驚きにうたれた。

 ここには、現代医療文明にみられる病気を敵対視する思想はない。病気を根絶するというより、人間の内なる自然のはたらきを活かすという考えである。たとえば、風邪を上手に経過すると、ほかの病気も治り、からだは強くなるという。病気は闘って征服するものではなく、からだの偏りをなおすきっかけと考え、ひとりひとりのからだと、こころの動きを自発的に方向づけていく。そこではしたがって、気とか潜在意識、あるいは各人の体癖というかくれたものを見ようとする。

 故野口晴哉氏は、知識人をはじめ多くの支持者を得ている整体法の創始者である。病気はからだの自然の経過であるという考えは、医学の父ヒポクラテス(註)と同じだ。風邪をめぐるこのささやかな本は、人生観さえ変えさせる。

 自然の土と水と太陽だけで育った野菜がからだに入ると、ある身震いを覚える。それと似て、自然に即して無数の人を救済した体験に根ざす生命学をといた「体運動の構造」「病人と看病人」(全生社)を読むと、本とはいえ、体の芯まで震盪させられる。

(註)ヒポクラテス(紀元前460年~紀元前377年)

 古代ギリシアの医師。病気は自然の経過と考え、医術は症状と対立せずに、自然経過を助ける技術であると考えた。

 

 ここには、野口整体の本質「かくれたものをみようとする」ことが、見事に表されています。

「気で観る」という観察眼によって、この「かくれたもの」を観ることができるのです。このような観察力が野口整体の指導者に必要な「感性」というものです。

「気・潜在意識・体癖」というものを通して、私は日々、人の「心の動き(主に感情)」を観ており、これが「かくれたもの」に当たるのです。

 2011年6月17日、ようやくお会いすることができた立川氏は、「『風邪の効用』に出会ったことで、より深く『養生訓』を研究するようになった」、と話されていました。

 ここからは、氏の『養生訓に学ぶ』を通じて、野口整体の「自然健康保持に大切な心とは何か」を考えて行きます。