野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第一章 野口整体の身心の観方と「からだ言葉」三

からだ言葉で「気の体」再発見!― 気は心と体をつなぐもの

 西洋医学では、医学生は死体解剖をするところから勉強を始めます。しかし、死んだ人の体は動きません。生きている人を観察するからこそ表情が読め、「今日は元気そうだ」、また「元気がない」など、体中で表現しているものを捉えることができるのです。

 また西洋(近代)医学は、心を抜きにして、どこが悪いかと体を調べるわけですが、このような近代的な「心身分離(心身二元論)」による身体ではなく、「私の心」と不可分な身体(身心一如)という意味が、「身体性」という言葉の基本にあります。

 私は、生きていることは「感情の動き」と捉えています。

 個人指導では「感情(心)が表れている身体」を、気を通して眼で見、手で触れて観察し、話しかけによる応答を通じて、その人の内面(感受性・潜在意識)を捉えようとします。

「潜在意識」とは、西洋から入って来た学問用語ですが、このような難しい言葉はなくとも、日本人は昔から、潜在意識(深層心理)を「気で捉えていた」のです。これは、実は人との「気によるつながり」を意味しており、気で相手と一つになることで観えてくるものです。

 これが日本人の「身体意識」というもので、これを可能にしたのが「型」でした。「型」(註)があればこその「日本人の身体意識」なのです。

(註)「型」は身体を鍛錬する(一定の形に入れる)ことで身に付け

ることができる、心のはたらきである。

  本章一3②の註で「臨床の知」を「個々の場合や場所を重視して深層の現実に関わり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに捉える働きをするもの」と解説しましたが、ここからは、私が個人指導経験を通じて得た「臨床の知」を、からだ言葉を通しての小話として述べて行きます。これらは、対象との相互作用の中で、主観的・共感的に対象を理解しようとする知のあり方そのものです。

 

(註)臨床の知 哲学者の中村雄二郎が提唱した知のあり方。

従来の「科学の知」は、客観性・論理性・普遍性を重視するあまりに対象から距離を置き、表面的な分析に留まる危険がある。一方「臨床の知」とは、対象との相互作用の中で、主観的・共感的に対象を理解しようとする知のあり方である。

以下は中村著『臨床の知とは何か』より。

臨床の知は、個々の場合や場所を重視して深層の現実に関わり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読みとり、捉える働きをする、と。

…科学の知が冷ややかなまなざしの知、視覚独走の知であるのに対して、臨床の知は、諸感覚の協働にもとづく共通感覚的な知であることになる。というのも、臨床の知においては、視覚が働くときでも、単独にでなく他の諸感覚とくに触覚を含む体性感覚と結びついて働くので、その働きは共通感覚的であることになるのである。

…臨床の知は、…直感と経験と類推の積み重ねから成り立っているので、そこにおいてはとくに、経験が大きな働きをし、また大きな意味をもっている。