野口整体 金井蒼天(省蒼)の潜在意識教育と思想

金井省蒼(蒼天)の遺稿から説く「野口整体とは」

第二章 江戸時代の「気」の医学と野口整体の自然健康保持 ― 不易流行としての養生「整体を保つ」一 1③

 

③近代化による「養生論から衛生論へ」という時代に、新しい養生(修養)を打ち立てた野口晴哉

 明治以来、外国との人と物の往来が盛んになり、コレラ・ペスト・赤痢・腸チフス結核などの伝染病が大流行しました。なかでも最大の強敵はコレラで、明治四十四年間のコレラによる総死者数は37万余、これは日清・日露戦争の総死者数16万人をはるかに上回るものでした(立川昭二『病気の社会史』)。

 結核は、明治後半から昭和20年代までの長い間、「国民病」と恐れられており、当時は、年間死亡者数も十数万人に及び、死亡原因の第一位でした。それは日本が近代化と帝国主義化を推し進めていた時期と重なります。

 このため明治から大正にかけては、政府による近代化に伴う伝染病対策として、西洋衛生学に基づく衛生思想が喧伝(けんでん)され、衛生論が江戸時代以来の養生論に代わって蔓延していきました(衛生とは「生」を「衛(まも)る」ことから、健康をまもるという意だが、今日では単に清潔・殺菌のみを意味する場合が多いのは伝染病が流行したことによる)。

 師は、1874年医制発布以来の、物質的な近代西洋医学の衛生思想について、次のように述べています(『野口晴哉著作全集 第一巻』雑篇 昭和八年 全生の会発足に当つて)。

 

新しき衛生思想普及の必要 過去に於ける一切の衛生方法は、総て物質的であり、避苦的であり、外面的形式本位であつて、その齎らした結果は、恐病思想(病気を、ただ恐いと捉える考え方)の蔓延と、之に基づいた生活による国民の精神的、肉体的抵抗力、成長力を委縮衰弱せしめた(人々が病気を恐怖したことで免疫力の低下を招き、人間的な成長を阻害した)以外の何ものでもない。

 而して現在の如き病弱者、無気力者の世界を現出せしめ、あらゆる国家的、社会的、個人的行詰りの根本的原因を造つたのだ。

 

  ここに、この文章を引用する理由は、師が説く「生命」「自然」というものに基づいた生き方の実践「全生」を、現代の修養(養生)として説くのが、本書の目的であるからです。さらに、師は全生という「道」について、次のように述べています(『野口晴哉著全集第一巻』1935年雑篇 昭和10年)。

 講習雑記 一

 生きる、即ち生命を伸ばすことは、手段ではない。それ自身、人間の目的なのだ。だから生活と養生とは本来、一緒のもので、之を切り離して考へられはしない。

 体の使ひ方も心の使ひ方も、生きて行く ― 生命発展の線に沿ふて、互に浸透し合ひつゝ進まねばならない。生活、養生、修養といふやうにバラゝに行はれるといふ法はない。

 一切の養生、一切の修養、それらは現実の人間生活の中に溶け込んでこそ其処(そこ)に正しき生活が営まれる。これが全生道の建て前だ。

 

  このように師は、当時の世に盛んに行われていた様々な修養(養生)や道徳、宗教の教えに対し、生命と修養(養生)を一つのものとした新しい修養法「全生」という道を啓いたのです。

 師野口晴哉の全生思想は、病気治しや健康の領域を超えて、会員にとって「生き方」を指し示す人生訓そのものであり、師にとっての求道の道であったのです。